因果律を超えて
「因果律」とは、およそ現象界に存在するものの一切は、因・縁・果という過程を経て出現しているという世界観である。
従って因果律とは、必然的に「時間」の範疇においてのみ成立するものであり、「時間」が存在しなければ、因果律もまた成立しないのである。
「時間」とは、即ち現象である。従って因果律によって現れる世界もまた、現象なのである。
「現象は無い!」ということは、即ち「時間・空間」の否定であり、「因果律」の否定である。
それは、人間はこれから時間・空間の中で修行して、それから救われるのでは「ない!」ということである。
「人間・神の子」とは、因果律(修行や業の浄化)をもって成就するのではない。それは、「今・ここ」において、はじめから成就しているのである。
従って、「唯神実相」ということと、「因果律」とは、実相において、はじめから両立しないのである。
「唯神実相」とは【在る】ものであり、「因果律」によって現れる世界は現象、つまり【無い】ものなのである。
私たちは、今現在の状況がどんなに経済的に不如意な状態であろうとも、たとえ地獄のような三角関係の渦中にあろうとも、また、家庭も会社も組織も和気あいあいと大調和した最上の関係にあろうとも、それらの一切は「現象」である。
私たちは、「今、ここ」において、はじめから「唯神実相」即ち、完全円満なる神の子なのである。
繰り返すが、それは既に成就しているのであって、これから時間的な経過を経て成就するものではない。
「唯神実相」とは、「時間」の助けを一切必要とせずに成就しているものの消息である。
「人間・神の子」とは、修行した後に成就するような、遠い彼方の目標なのではなく、はじめのはじめから「今、ここ」に在るのである。
人間は、先ず「神の子」であり、先ず「完全円満」なる「光り」なのである。
だから、まず「神の子」であり、「完全円満」であり、「光り」であることを、私たちは「無条件」に悦んでいいのである。それが「手の舞い足の踏むところをしらず」という、人間そのままの悦びの相(すがた)である。
全てに先立って、先ず「神の子」であり、「完全円満」であり、「光り」であることを悦ぶことが、「そのまま」ということであり、「はい!」ということであり、「ありがたい!」ということであり、「うれしい!」ということなのである。
この悦びと感謝の念の中に、現象の一切が円満に成就するのである。これが生長の家で言うところの「唯心所現」(心の法則)である。
縦の真理「唯神実相」を悦ぶことが先であり、現象は自ずから整うというのが「唯心所現」の横の真理である。
だから私たちは、まず「神の子」であり「完全円満」であり「光り」であることを、誰にも遠慮することなく、無条件に悦んでいいのである。
それが、因縁果という「業」を超え、悪業を善業へと転じ、人間・神の子の実相を成就する道なのである。
こんな事を書いていると、故郷にいた十代のころ、生長の家の地方講師の方から聴いた、次の古歌が思い出されてくる――
よろこべば よろこびごとが よろこんで
よろこびつれて よろこびにくる
久都間 繁
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コメント
いつも有り難く拝読しております。
今日の>>「現象は無い!」ということは、即ち「時間・空間」の否定であり、「因果律」の否定である。。。これは感動して鳥肌が立ちました。
「これは何の因果?」とか「前世の業だから仕方ない」という言葉を聞くたびに、いつも、なんだか淋しくなっておりました。そこに、
>>従って、「唯神実相」ということと、「因果律」とは、実相において、はじめから両立しないのである。。。というお言葉、胸がすっといたしました。
>>人間は、先ず「神の子」であり、先ず「完全円満」なる「光り」なのである。。。。ありがとうございます、感謝でいっぱいです。
投稿: シコク嫁 | 2009年8月18日 (火) 09時21分
シコク嫁さま、コメントをありがとう。
これは昨日の午後、ふと脳裏に浮かんだことを書き留めたものです。
ふだんからこんな事ばかり講話で話していますが、楠本加美野先生が「親孝行」の話をご自分の使命とされているように、この種のテーマを説くのは私の使命なのだということが、最近ようやく分かるようになりました。
>>「これは何の因果?」とか「前世の業だから仕方ない」という言葉を聞くたびに、いつも、なんだか淋しくなっておりました。
「七つの灯台の点灯者の神示」には、「今すべての病人は起つことが出来るのである」と説かれていますが、「業」や「因縁」といった「現象」を実在すると認めていたのでは、このコトバを素直にハイと受け取れなくなってしまうのです。
イエス・キリストが、なぜ彼が盲目となったのかという質問に対して、本人の罪にも非ず、親の罪にも非ず、神の栄光が顕われんがためなり、という意味の言葉で答えていますが、これも「時間・空間」(現象)の否定、つまり時間上で演じられた因・縁・果は影に過ぎないのであり、実在するものは神のみ、実相のみ、光りのみである、ということの宣言なのです。
これを踏まえた上で、あらためて聖経の冒頭にある「七つの灯台の点灯者の神示」に説かれた、
「時が来た。いますべての病人が起つことが出来るのである。最早、あなたにとって病気は存在しない時が来たのである。二千年前、キリストが……」
この神示に書かれたご文章を読み返してみると、生長の家がこの世に出現した荘厳な意味が見えてきます。
「縦の真理」と「横の真理」は、そのままキリスト教における十字架であり、仏教における卍(まんじ)であり、久遠の今(実相世界)を「今ここ」に開く鍵に当たります。
投稿: 久都間 繁 | 2009年8月18日 (火) 14時03分
久都間様
ご無沙汰しております。御文章、とても有り難く拝読させて頂きました。また、救って頂きました。私は実は誰にも言えない負の部分が過去にあります。榎本先生に薫陶を頂いて、自ずとそれは超克したと思っていましたが、たまにふっとそれが頭をもたげる事があります。
でも、一切の因縁を超越するのが生長の家の教えであると久都間様の御文章で再確認する事が出来ました。誠に有り難うございました。
投稿: 堀 浩二 | 2009年8月21日 (金) 09時18分
堀 様
「負の部分」とは、人生の転換点ですね。
私にも「負の部分」があります。
唯神実相の教えに出会っていなければ、それに押しつぶされてしまったほどのものですが、今ではそれが「光明世界への転換点」であったことが、よく分かるようになりました。
それでも堀さんがおっしゃるように、ふと頭をもたげてくるときがあります。
そのときは、観世音菩薩が、また私を救いに現れて、完全円満な光明世界へとさらに自覚を深く導いてくださっている、そんなことを感じています。
投稿: 久都間 繁 | 2009年8月23日 (日) 09時53分
>「負の部分」とは、人生の転換点ですね。
これは至極のお言葉ですね。百万の勇気を得た感じです。結局、悪いものは一つもナイ。最悪と思われる事が結局、最高の福をもたらしてくれるものだと言う事ですね。返す返すも有り難う御座います。
投稿: 堀 浩二 | 2009年8月23日 (日) 23時47分
>>結局、悪いものは一つもナイ。最悪と思われる事が結局、最高の福をもたらしてくれるものだと言う事ですね。
ですから(大きな声では言えませんが(^^;)
「負の部分(光への転換点)」は、沢山あればあるほどいいのです!
投稿: 久都間 繁 | 2009年8月24日 (月) 15時48分