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2009年9月

2009年9月30日 (水)

「レッテル」について

  私たちは、知らず知らずのうちに、周囲の人に対してレッテルを貼っているものである。

 そんなことを言葉にすると、「何を意外なことを」と思われる方も多いかもしれない。
 
 私も、そんなことを着想する前だったら、きっと同じように感じていたことだろう。

 しかし私たちは、自分を取り巻く人に対して、自分で勝手にレッテルを貼り付けて、そのレッテルを見てさまざまなことを判断している場合が、なきにしもあらずなのである。

 たとえば、私たちが誰かを怨み憎むまではいかなくても、誰かのことを好ましく思っていない場合があったとしたら、実はその人の顔に貼り付けたレッテルを見て、それを嫌っているだけなのかもしれないのである。

 夫や妻のこと、子供のこと、職場や組織の同僚や上役、中心者のこと、もしこの人たちのことで、自分の中に葛藤や摩擦があるならば、こじれた思いや問題を解決しようとする前に、先ず相手の顔に貼り付けていたレッテルを剥(は)がしてしまうことから始めなければならないのである。

 レッテルとは、自分がこれまで現象世界で見聞覚知してきたところの経験の残像であり、それは「心の影」なのである。実体のない「心の影」を相手にしていたのでは、そこに見ているのは自分自身の過去の心の姿であって、決して相手の「いのち」と出合っているわけではないのである。

 レッテルを貼ってしまうのは、憎み怨み好ましくないと思っている相手だけが対象なのではない。

 私たちは、あらゆる人に物に事に、五感六感から入手したあいまいな情報だけを根拠に、レッテルを貼っているのかもしれないのである。
 もしかしたら、神や仏、そして生長の家の教えにさえも、レッテルを貼っているかもしれないのである。

 これも意外に聞こえるかもしれないが、たとえば信仰熱心な人の中には、心の中で憎んだり、怨んだりしている相手に対して、心で相手のことを不完全と見ているにもかかわらず、そのレッテル(ニセモノ)の上に、さらに「感謝」や「和解」というレッテルをむりやり上塗りしようと懸命に努力している場合もあるかもしれないのである。

 しかし「実相」とは、努力して上塗りするような代物(観念)ではなく、憎み怨み毛嫌いするそれら一切のレッテルを徹底的に剥(は)がしたところに現れる、はじめからある生まれたままの本当の相(すがた)のことなのである。

 仮に、憎み怨み毛嫌いしている相手の上に、努力して別のレッテルを上塗りして、形の上で取り繕うことが出来たとしても、それがレッテルである限りにおいて、それは仮のニセモノに過ぎないのであり、そんなものは必ず剥(は)がれてしまうのである。それが剥がれないように絶えず心配して努力していなければいけないような信仰では、やがて身も心も持たなくなるのである。
 努力すればするほど、務め励めば励むほど、それでは「全托」の信仰から遠ざかるばかりである。

 レッテルなるものは、それが良きにつけ、悪しきにつけ、実相(ほんとうのすがた)とは〈無関係!〉なのである。


 実相が現れるということは、相手や自分自身に貼り付けた「病気だ!」というレッテルを剥がし、「だめな人間だ!」というレッテルを剥がし、「能力がない!」というレッテルを剥がし、「行が足りない!」というレッテルを剥がし、「不完全だ!」というレッテルを剥がしてしまうことである。そんなレッテルは、生長の家の「人間・神の子」の信仰とは無関係な、ただの現象(ニセモノ)に過ぎないのである。

 レッテルを剥がし切ったそこに、はじめのはじめから在った実相が現れるのである。

 それが「現象は無い!」ということであり、そこから、レッテルの背後にあるものへの感謝がこんこんと湧き出て来るのである。

「天地のすべてのものに感謝する」とは、天地一切のものからレッテルを剥ぎ取った実相(ほんとうのすがた)と出合うことにほかならないのである。

 レッテルという偽物(にせもの)を残したまま、ニセモノの上に「感謝」や「和解の」のレッテルを一所懸命に上塗りしていたのでは、その信仰は偶像崇拝であり、やがて物神崇拝へとつながるのである。

「花、花に非ず、これを花という」
「物質、物質に非ず、これを物質という」

「物質は無い!」「現象は無い!」と、生長の家では説いているが、これは天地の万物に対するレッテルを払拭することにほかならないのである。

 レッテルを剥がせば、天地が開ける音が、今! 聴こえてくるのであり、レッテルを貼っていた相手が、大慈大悲の観世音菩薩として大光明を放っていたことが分かるのである。


  久都間 繁

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2009年9月23日 (水)

「ほったらかし農園」ゴーヤ爆発!

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 ほったらかしていたゴーヤが、ついに爆発していました!

 ゴジラのような、ぱっくりと空いた口から、朱色の種がこぼれ落ちています。

 着ぐるみのような、黄金色に染まった衣装を惜しげもなく脱ぎ捨て、乾坤一擲(けんこんいってき)! とばかりに大地に種を吐きだしているようです。

 毎年、この光景と出合うたびに、農園に秋の到来を告げる鐘が鳴っているような気がして、季節の巡る早さに驚かされます。


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2009年9月20日 (日)

ほったらかし農園の彼岸花

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 彼岸入りした「ほったらかし農園」でも、彼岸花が満開です。

 拡大して見ると、向かって右隣にキンカン、やや後ろにネギの茎が見えます。
 ネギは何年か前に母が植えて、その後自生したもので、草に埋もれながらもたくましく生き延びています。

 農園のある青梅市では、一週間ほど前の9月12日ごろから一斉に彼岸花が咲き始めました。
 この花をしみじみ眺めていると、かつて彼岸前後に出会ったであろう、いろいろな思い出がよみがえってきます。


 秋の夕日を浴び、赤トンボが舞うなかを夢中になって従姉たちと駆け回った4、5歳の頃のこと。

 小学校の帰り道、拾った棒で、バッサバッサと切り倒した後に落ちる、露わな花の感触。

 幼かった息子と、畑のあぜ道に咲く花を眺めながら、懸命に後を追った秋祭りの山車と祭囃子(まつりばやし)の音。
 

 彼岸花は、いつのまにか現れて、深紅の花を咲かせたのもつかの間、いつの間にか消えて往きます。

 別名、曼珠沙華(まんじゅしゃげ)とも、幽霊花とも呼ばれていますが、遠い日の記憶のように出現して、諸行無常の理(ことわり)を、鮮やかな花に託して語りかけているようでもあります。

 この花が咲き、日が暮れてコオロギの音が辺り一面に降り注ぐようになると、妙に日本酒が恋しくなるのは、私だけなのでしょうか(^^; 
 

 
 
 

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2009年9月10日 (木)

「ほったらかし農園」のトマト

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 畑をほったらかしていても、それなりに収穫できるところが「ほったらかし農園」の魅力の一つです。

 たくさん採れ過ぎたたときは、ご近所にもお裾分けしています。

 トマトは、20年ほど前からプランターで生ゴミとEM菌とを使って栽培してきた経験が役だっています。

 当初は失敗することもありましたが、これも料理と同じで、すべての失敗や成功がよい経験となり、やがて自分の個性(性格や好み)、栽培条件(プランター・畑の規模)、携われる時間などを加味して、「自分ならではの」野菜作りができるようになります。

 誰でも、土とプランターと好奇心さえあれば、いつでも、どこに住んでいても始めることができます。
 

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2009年9月 8日 (火)

「ほったらかし農園」のヒョウタン

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 今年の春、小学4年の長男とキュウリの苗を買いに行ったところ、瓢箪(ヒョウタン)の小さな苗を発見しました。

「ヒョウタン!」

 思わずそのユニークな形が、電光のように脳裏を駆けぬけ、

「ためしに、育ててみようか!」

 と、息子に問い掛けると、好奇心に満ちた彼の瞳が輝き、1株だけ購入して農園のイチゴ畑の空きスペースに植えてみました。

 肥料を与えていなかったのですが、それなりに成長して、9月上旬にはこんなになりました。

 そういえば10数年前、青森県にある三内丸山遺跡を見学に行った折、5000年前の縄文時代にもかかわらず同地でアフリカ原産のヒョウタンが栽培されていたことを知り、縄文文化圏の交易範囲の広さにたいへん驚かされたことがあります。

 同遺跡では、この他にも世界最古の日本製漆器の破片や、クルミの入ったかわいい縄文ポシェットの遺物、巨大な建造物の遺構、大人と赤ちゃんの埋葬方法の違いなどの行き届いた説明を、現地のボランティアガイドの方にしていただき、この日以来、私の縄文観が一変したことを思い出します。

 さてこのヒョウタン、煮ても焼いても食えそうにありませんが、いずれこれに晩酌でも入れて、はるか往古の森で営まれていた縄文人の生活に思いを馳せながら、秋の夜長に究極の「森のオフィス」のことでも考えてみたいと思います。

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2009年9月 7日 (月)

「ほったらかし農園」のカボチャ

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 このカボチャ、実は畑の脇を流れる小川の上空に伸びた山吹に巻き付いて実っています。(山吹の花が、その重さにたえながらカボチャに何ごとかを訴えているのがご覧いただけることと思います(^^;)
 
 これは、普通の農家の畑ではお目にかかることのできない、わずかな土地を縦横に利用して野菜を栽培している「ほったらかし農園」ならではの奇観といえましょう。

 あまり実が大きくなりすぎると落下しそうなので、農園では適当な時期を見計らって収穫する計画を立てております。

 でも写真を拡大してよく見ると、これから咲こうとしているカボチャのつぼみがまだ2つほど確認できます。山吹は、このカボチャから一方的に浴びせかけられた過酷な運命を、はたしてどのような気持ちで受けとめているのだろうか。
 

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2009年9月 6日 (日)

「ほったらかし農園」のフウセンカズラ

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 子どもたちが学校から貰ってきた種を、なんでも植えてしまうところが「ほったらかし農園」のひとつの特徴でもあります。

 写真は「フウセンカズラ」というつる性の一年草です。まきひげを出して、それを他の植物などに絡ませながら成長します。これは、最近ゴーヤを収穫しているときに目の前にブラブラぶら下がっているのを偶然に発見したものですが、そういえば今年の春先、末っ子にせがまれて一緒に種を植えたことを今になって思い出している好い加減な園主です。

 学校で種を配るほどだから、「フウセンカズラ」もきっと食用になるのだろうと調査してみましたが、これはもっぱら観賞用として栽培されているようで、ネットのどこにも料理や食用に関する記事は見あたりません。 

 袋の上の方に、ちょこんと白い花が咲いているのが分かりますでしょうか。これが受粉して結実すると、下のような袋状になり、冬枯れて茶色くなると一袋に3粒だけ種ができます。種には黒地に白いハート模様の可愛いマークがくっきり浮き出ますので、私が忘れていなければまた本欄で紹介させていただきましょう。

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2009年9月 5日 (土)

「ほったらかし農園」のハーブ〈チェリーセージ〉

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 この花、サルビア・ミクロフィラ(チェリーセージ)の一品種で、ホットリップスというメキシコ原産の宿根草です。

 ご覧のように、花びらがチェリーのように真っ赤になることから、チェリーセージとも呼ばれています。

 最初は、害虫から野菜を守るためのコンパニオンプランツとして植えたものですが、可愛い花びらとは裏腹に、春になると雑草のようにたくましく次から次へと枝が伸びてきて野菜の生育の邪魔をするので、私は毎年、キュウリの苗を植える時期に剪定ばさみでバッサバッサと枝を切り払っています。それでも、彼らの勢いは一向に衰えることなく、毎年じわじわと株を広げています。

 しかし、無農薬でも野菜が元気に育っているのは、確証はできませんが、もしかしたら彼らのお陰なのかもしれません。
 春から秋にかけて、たくさんの小さな花を咲かせ、そのすゞやかな香りは好感が持てます。花瓶に活けても楽しめますが、うっかり数日放っておくと細かな花びらを一面に散らしています。

 ちなみにわが家の子どもたちは、この花の花びらを摘んで蜜を吸うのが大好きで、「とても甘い!」と語っています。


 

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2009年9月 4日 (金)

「ほったらかし農園」のハーブ〈マロウ〉

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 休日に「ほったらかし農園」でトマトを収穫していたら、その脇でひっそりとマロウが咲いていました。

 マロウは和名をウスベニアオイというハーブの一種で、ご覧のように可憐な花を咲かせます。

 この花は、数年前に母が植えたもので、調べてみたら、ハーブだけに茎や花はお茶やサラダに、葉っぱは天ぷらにして食べることができるようです。しかし、そんなことをすっかり忘れ去ったまま、今年も夏が過ぎていく「ほったらかし農園」です。
 高いポテンシャルを秘めたマロウですが、彼女は密かに蝶や蜂たちを養うことで充足しているようにもみえます。でも、天ぷらにしたら意外と美味しいのかもしれません(^^;

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2009年9月 2日 (水)

「久遠生き通し」について

  私が生長の家に触れたばかりの中学生のころ、アメリカの光明思想家ロイ・ユージン・デーヴィス博士の書かれた『人間とは何か』(日本教文社刊)という本を読んだことがあった。

 

 そこには、「人間は未だかつて生まれたこともなく、死することもないのである」という言葉が書かれていた。それがどういう意味をもった言葉なのか、当時の私には判然としなかったが、なぜか心の琴線にふれて、30年以上経った今でも印象に残っている。

 

 谷口雅春先生〈生長の家創始者〉は、「人間は未だかつて女の子宮から生まれたことはない」と、深い比喩に満ちた言葉を説かれていたが、この「生まれたことはない」というコトバは、ディーヴィス博士の「未だかつて生まれたこともなく」というコトバと、同じ内容を指し示しているように思えるのである。

 

 つまり両者に共通するところは、真の人間は「現象界に生まれたことはない」と、いうことではないだろうか。

 

 
「生まれる」とは、現象世界での時間・空間上における営みである。

 

「生まれた」と見れば、生・老・病・死の現象が展開すると見えるのであり、そのことを仏教では、「大夢」(だいむ)と呼んでいる。つまり、「生まれた」と見える世界は、大きな夢を見ているようなものだ、ということである。

 

 悟る(覚る)とは、この大きな夢から覚めることにほかならない。

 

 つまり、「罪」も夢であり、「病」も夢であり、「死」も夢であり、そして「生まれた」ということも、また夢なのである。

 

 云うまでもなく、ここで言う「夢」とは、「無い」ものの別名のことである。つまり、生まれたり、死んだりするように見えているものは、それは真実在の「人間」ではなく、借りの相(すがた)に過ぎないのである。

 

 私たちの実相は、未だかつて一度も「生まれた」ことはなく、久遠のはじめから生き通しているのである。

 

 真実在の人間は、時間・空間上に現れたり、消えたりする影のような存在ではない。

 

 それは、はじめのはじめから「在る」のである。

 

 禅宗では、これを、

 

「父母未生以前の本来の面目」

 

と表現し、これに耳を澄ますことを、

 

「闇の夜に 鳴かぬ烏(カラス)の声聴けば 生まれぬ先の 父ぞ恋しき」

 

と歌っているのである。

 

 父母が生まれる以前とは、先祖が発生する以前の、ということであり、人類発生以前の、ということであり、地球発生以前の、ということであり、宇宙発生以前の、ということである。それが「久遠の今」(eternal now)ということである。

 

 時間・空間という現象とは無関係に、はじめのはじめから在り通すところの真実在の人間は、自性円満であり、完全円満なる神の生命であり、仏性そのものなのである。

 

 それは父母への感謝以前から、先祖への供養以前から、自性円満なのが真実在の人間であり、そのことが分かったとき、真実在なる父母に、ご先祖に、無条件に、満腔の感謝を捧げることができるのであり、これを「天地一切のものへの感謝」というのである。

 

 つまり、生長の家で言うところの「天地一切のものへの感謝」「父母への感謝」とは、相対的な感謝ではなく、真実在への「絶対感謝」なのである。それは、はじめのはじめから父母と、天地一切のものと大調和しており、天地の万物と一体(ひとつのいのち)であるところの、真実在(実相)なる自己の発見、ということにほかならないのである。

 

 これから感謝してから、供養してから、修行してから、研鑽してから、救われるのではなく、はじめのはじめから感謝のまっただ中で救われ切っている実相・神の子が、今ここにいるのである。その実相を見出したとき、絶対感謝となり、無条件感謝となるのである。

 

 はじめから救われており、宇宙未生以前のはじめから大感謝の中に生き通しているもの、それが真実在の貴方であり、人間神の子ということであり、山川草木国土悉皆成仏が現成する世界の消息である。

 

久都間 繁

 

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2009年9月 1日 (火)

「ほったらかし農園」のヒマワリ

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 ヒマワリが立派な花を咲かせました。

 一緒に花をながめていた中学1年の娘が、ふと思い出したように、彼女が飼っているハムちゃん(ジャンガリアンハムスター)の餌の食べカスを、かつてこっそり畑に捨てていたことを告白しました。花びらに穴が空いているのは、ハムちゃんが種をかじった痕跡だろうか…!
 ともあれヒマワリは自分の不遇な生い立ちなど気にすることなく、たんたんと「今」を明るく生きています。


 

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畑の向こうの小川に垂れ下がったゴーヤ
(これでは緑のカーテンになりません(^^;)


 

 

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「ほったらかし農園」に自生するヤマブキ


 


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この日(8月末日)の収穫です。
ゴーヤは翌日のおかずに。


 

 

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夕方、子どもたちと散歩に出たら、栗の実が落ちていました。
秋が、もうそこまで来ているのだろうか。

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