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2009年9月 2日 (水)

「久遠生き通し」について

  私が生長の家に触れたばかりの中学生のころ、アメリカの光明思想家ロイ・ユージン・デーヴィス博士の書かれた『人間とは何か』(日本教文社刊)という本を読んだことがあった。

 

 そこには、「人間は未だかつて生まれたこともなく、死することもないのである」という言葉が書かれていた。それがどういう意味をもった言葉なのか、当時の私には判然としなかったが、なぜか心の琴線にふれて、30年以上経った今でも印象に残っている。

 

 谷口雅春先生〈生長の家創始者〉は、「人間は未だかつて女の子宮から生まれたことはない」と、深い比喩に満ちた言葉を説かれていたが、この「生まれたことはない」というコトバは、ディーヴィス博士の「未だかつて生まれたこともなく」というコトバと、同じ内容を指し示しているように思えるのである。

 

 つまり両者に共通するところは、真の人間は「現象界に生まれたことはない」と、いうことではないだろうか。

 

 
「生まれる」とは、現象世界での時間・空間上における営みである。

 

「生まれた」と見れば、生・老・病・死の現象が展開すると見えるのであり、そのことを仏教では、「大夢」(だいむ)と呼んでいる。つまり、「生まれた」と見える世界は、大きな夢を見ているようなものだ、ということである。

 

 悟る(覚る)とは、この大きな夢から覚めることにほかならない。

 

 つまり、「罪」も夢であり、「病」も夢であり、「死」も夢であり、そして「生まれた」ということも、また夢なのである。

 

 云うまでもなく、ここで言う「夢」とは、「無い」ものの別名のことである。つまり、生まれたり、死んだりするように見えているものは、それは真実在の「人間」ではなく、借りの相(すがた)に過ぎないのである。

 

 私たちの実相は、未だかつて一度も「生まれた」ことはなく、久遠のはじめから生き通しているのである。

 

 真実在の人間は、時間・空間上に現れたり、消えたりする影のような存在ではない。

 

 それは、はじめのはじめから「在る」のである。

 

 禅宗では、これを、

 

「父母未生以前の本来の面目」

 

と表現し、これに耳を澄ますことを、

 

「闇の夜に 鳴かぬ烏(カラス)の声聴けば 生まれぬ先の 父ぞ恋しき」

 

と歌っているのである。

 

 父母が生まれる以前とは、先祖が発生する以前の、ということであり、人類発生以前の、ということであり、地球発生以前の、ということであり、宇宙発生以前の、ということである。それが「久遠の今」(eternal now)ということである。

 

 時間・空間という現象とは無関係に、はじめのはじめから在り通すところの真実在の人間は、自性円満であり、完全円満なる神の生命であり、仏性そのものなのである。

 

 それは父母への感謝以前から、先祖への供養以前から、自性円満なのが真実在の人間であり、そのことが分かったとき、真実在なる父母に、ご先祖に、無条件に、満腔の感謝を捧げることができるのであり、これを「天地一切のものへの感謝」というのである。

 

 つまり、生長の家で言うところの「天地一切のものへの感謝」「父母への感謝」とは、相対的な感謝ではなく、真実在への「絶対感謝」なのである。それは、はじめのはじめから父母と、天地一切のものと大調和しており、天地の万物と一体(ひとつのいのち)であるところの、真実在(実相)なる自己の発見、ということにほかならないのである。

 

 これから感謝してから、供養してから、修行してから、研鑽してから、救われるのではなく、はじめのはじめから感謝のまっただ中で救われ切っている実相・神の子が、今ここにいるのである。その実相を見出したとき、絶対感謝となり、無条件感謝となるのである。

 

 はじめから救われており、宇宙未生以前のはじめから大感謝の中に生き通しているもの、それが真実在の貴方であり、人間神の子ということであり、山川草木国土悉皆成仏が現成する世界の消息である。

 

久都間 繁

 

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コメント

 本当に素晴らしい尊い御文章ですね。感謝合掌。

投稿: 堀 浩二 | 2009年9月 2日 (水) 23時07分

堀さん、コメントをありがとうございます。

最初に考えたタイトルは、「宇宙未生以前の本来の面目」というものでした。

秋が深まったころ、また食事でもしながら語り合いましょう!

投稿: 久都間 繁 | 2009年9月 4日 (金) 09時55分

合掌、ありがとうございます。

コメントは久しぶりです。しかし先生のブログは毎日チェックしてます^^
日々忙しく中々パソコンの前に立つことも間々なりませんが、携帯に転送して御文章を読ませて頂いております。
学生の頃も社会人の頃もただ現象の一幕であり、画像であり過ぎ消え行く運命ですが、その一瞬一瞬の細切れを感謝し、大事にしていきたいと思う今日この頃です。無条件に感謝しながら生きることが出来る私たちであることを今もう一度呼び起こしたいです。

僕もまたお食事に参加させて下さい!一杯食べます^^;
ありがとうございました。
再拝

投稿: 山崎 | 2009年9月 5日 (土) 00時40分

 山崎さん、コメントをありがとう!

>>僕もまたお食事に参加させて下さい!一杯食べます^^;

 
 最近、私は学校関係の方との会合や会食する機会が増えましたが、山崎さんも今年就職されて、学生時代とはひと味違ったネットワークが広がっているのではないでしょうか。

 あらゆる場所と機会が、神様の御心を実現する「場」でもありますので、いよいよ純粋に黙々と真理の研鑽を重ね、仏心を、神意を楽しく伝えていきましょう。

 また、ゆっくりお話しましょう。聖典講義の方も、気軽にお越し下さい。

投稿: 久都間 繁 | 2009年9月 6日 (日) 17時09分

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