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2009年10月

2009年10月29日 (木)

読者からの質問に答えて

 本欄の読者から、メールで質問をいただいていました。が、仕事などの関係で回答を出すのが伸び伸びになってしまいました(^^;

 

 質問を2ついただいておりましたので、まとめて回答させていただきます。

 

質問1

 

 私たちのこの現象世界は表現するための世界であるといわれていますが、天国的状態を表すためにやはり人は苦行難行といわれる時期があるのではないでしょうか。よく生長の家では苦行難行はいらぬといいますが? そのために大変な努力と精進だけではなく時間もかけ命がけで求めているのです。実相が絶対的力を持って私たちを生かし愛していられるのなら、もっと端的に表現の能力を与えてくださるべきではないでしょうか? 実相があれど現れずではどうしょうもないのでは?

 

質問への回答

 

 今年になってから、私は本部会館での聖典講義で、谷口雅春先生の書かれた『幸福生活論』をテキストにお話しさせていただいていますが、ご本の中に次のご文章があります。

 

「人生の航路に於いて遭遇する総ての人生体験の意義は「人格」を陶冶(とうや)し向上せしめる鍛錬(たんれん)である点に存します。あらゆる見せかけの困難は、真の神の如き勝利の門に入るための入り口に設けられたる鍵穴に過ぎないのです。その鍵穴にピッタリと当てはまる鍵とならなければならない」(『幸福生活論』70ページ)

 

 このご文章は、さらりと読んでしまうと当たり前のことしか書かれていないように見えますが、読みようによっては実に深い意味を含んでいます。

 

 ここに「人格」というコトバが出てきますが、谷口先生がお説きくださっている「人格」とは、私たち一人一人となって現れた「神の子の個性」という意味に解釈してもいいのではないかと思います。

 

 つまり、人生体験(人生での苦労や修行)の意義は「神の子の個性」を陶冶し向上せしめる鍛錬である、ということになります。

 

 人間は、はじめから「神の子」なのですから、人生体験や苦労や修行によって「神の子」になるわけではありません。

 

 ですから生長の家から見た修行の意味とは、「私たち一人一人に授けられた神の子の個性を向上せしめる」ということであり、平たく言えば、神の顕現である「人格(神の子)」を通して、神の完全円満大調和なる真・善・美の世界を地上にも具象化する、ということになると思います。

 

 以前にも紹介しましたが、聖経『甘露の法雨』には、

 

「神があらわるれば乃ち
善となり、
義となり、
慈悲となり、
調和おのずから備わり、
一切の生物処を得て争うものなく、
相食むものなく、
病むものなく、
苦しむものなし。」

 

と書かれているように、私たちが、より智慧深く、愛深く、健康に、豊かに、悦びあふれ、大調和の生活を実現する、ということが、「人生の航路に於いて遭遇する総ての人生体験(修行)」の目的ということになります。

 

次の「質問2」の回答も、これと密接につながっています。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

質問2】

 

 今一番ほしいものはこころの安定と平和と「現象なし」打ち切る絶対力です。
 願望より想念のほうが強いとよく聞きますが、現在意識があってその下に潜在意識、もっと下は超在意識と、自分の心は自分でもコントロールできなくて、また習慣性がありますと言われると
、はるか遠いところへ神様が行かれていくようで、・・・苦しくなってしまいます。これは、私にとってとても重大な問題なのです。

 

質問への回答

 

 先に紹介した『幸福生活論』の一節は、次のように続いています。
 
「あらゆる見せかけの困難は、真の神の如き勝利の門に入るための入り口に設けられたる鍵穴に過ぎないのです。その鍵穴にピッタリと当てはまる鍵とならなければならない」(同書、70ページ)

 

 私たちが人生で遭遇する「困難」とは、谷口雅春先生によると、それは「見せかけ」のものであり、「勝利の門に入るための入り口に設けられたる鍵穴」である、ということです。

 

 勝利の門に入るための「鍵穴」に、鍵を入れて回すためには、私たちは「鍵穴」にピタリと入るような無碍自在な「カギ」にならなければなりません。

 

 「神」や「仏」は、宇宙に満ちる大生命であり、無碍自在です。神の子である私たちもまた、本来は無碍自在な生命なのです。そのような神の子は、どのような複雑な「鍵穴」にも自在に(観世音菩薩のように)相を変えて「鍵」を合わせることができるのです。

 

 ところが私たちが、人生のさまざまな問題に直面するとき、それを「困難」と感じるのは、私たちが「人格(神の子)」の周りに十重二十重にレッテルを貼って、「これでなければならぬ」と形や物に捉われいるから、「人格(鍵)」が「鍵穴」に入らない! それが「困難」として感じられるのであり、肉体人間には「難行苦行!」として体感されるのです。

 

 十重二十重に塗り固めたレッテルで生きるのをやめて、素っ裸の「人格(神の子の生命)」で生きるようにすれば、どんな鍵でも回すことができるのです。

 

 
 弘忍禅師が弟子の慧能(えのう)に向かって、

 

「米熟するや?」

 

と質問したことが、谷口雅春先生が書かれた『無門関解釈』「不思善悪」の中に紹介されています。
 それに答えて慧能は、

 

「米熟すること久し。なお篩(ふる)いをかくことあり」

 

と答えています。

 

 私たちは、修行してから「神の子・仏の子」になるのではなく、はじめから「神の子・仏の子」であり、それが「米熟すること久し」ということですが、その久遠に熟している神性・仏性こそが私たちに現存する「神の子の人格」なのです。

 

「篩(ふる)いをかくことあり」とは、在るものと、無いもの、とを篩いにかける、つまり「実相」と「現象」(潜在意識も現象です)とを篩いにかけて、「無い」ものを相手にせずに、「在る」もの(神性・仏性)だけを相手にして悦んで生活していれば、「神の子の実相(個性)」が、いよいよ鮮やかに光り輝いてくるのです。

 

 本来無いもの(潜在意識も)を有ると思って相手にしているから、いつまでも迷いが去らずに苦しむのです。迷いや症状とは、出たときが消えたとき、であり、相手にして握りさえしなければ、出た現象はどんどん消えていくのです。

 

 潜在意識も現象にすぎません! 潜在意識を浄めてから、神の子になるのではありません! 主体である神の子の実相のみを相手にして悦んで生活していれば、従者である潜在意識は自然に(自動的に)光明化する(浄まる)のです。それが人生の光明面を観て生きる日時計主義の生活であり、三界唯心所現の法則(横の真理)です。

 

 無いものを「無い!」と、ふるいに掛けて、はじめから在る「内なる光り(神性・仏性)」のみを大肯定して喜び悦んで楽しく生活することが、人生の主人公(神の子)としての絶対主権を取りもどすことであり、その絶対主権(実相)に生かされ浄められて生きるのが、生長の家の「絶対他力」の信仰です。

 

 久都間 繁

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2009年10月19日 (月)

悲しみの奥にある聖地

「悲しみの奥には聖地がある」とは、オスカー・ワイルドの言葉ですが、ここに紹介させていただくのは、友人で生長の家本部に勤めている竹内芳実さんという20代の女性が書き綴った「I’m here ひでちゃんのこと」というブログです。

 

 ひでちゃんとは、2年半ほど前、26歳の若さで天国へと旅立った、竹内さんの大切な方の愛称です。

 

 彼女は、ブログの冒頭で次のように紹介しています。
 

 

「ひでちゃんと過ごしたのはたった一年。その短い時間の中で、私たちは出会い、恋をし、ひでちゃんは何かをやり遂げてあっという間に私の前から去ってしまいました――」

 

 本文を読んでいると、夭折したひでちゃんの想い、寡黙な竹内さんのこれまで秘めてきた想い、そしてひでちゃんのご両親の想いなどが、手記を通して伝わってきて、胸が熱くなります。

「このまま埋もれさせてはいけない」と思い、ご本人に本欄で紹介してもいいかと打診したところ、

 

「ぜひ、紹介していただければと思います。彼もそれを望んでいると思いますし、喪失を経験された方の悲しみが少しでもやわらぐことをお祈りしています」

 

との快諾をいただいたので、つい最近公開された彼女のブログ「I’m here ひでちゃんのこと」を紹介することにしました。

 

 彼女の越えてきた悲しみは、愛する人を失い、癒えない悲しみを抱えている方々の糧となり、慰めともなることでしょう。
 
 また、彼らの純粋な愛の姿は、ひでちゃんから人生の門出に立つ人たちに向けて贈られた、清らかな魂の記録のようにも思えてきます。

 

 このブログの公開を機に、竹内さんご自身も、美しい実りある人生に向けて、新たな歩みを進めていただければと心から祈っています。

 

  久都間 繁

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2009年10月15日 (木)

「レッテル」について②

 今は故人となった生長の家の恩師が、「真理というものは、たとえ子供の口から出たコトバでも、もしそれが真理であれば、子供が語ろうが、誰が語っていようが、真理は厳然として真理だ!」という意味の話を、30年ほど前にして下さったことを、最近ふと思い出したことがあった。

 

 私はかつて、一を聞いて十を知ったようなつもりになっていたが、それもやはり、大変なレッテル化であり、ずいぶん遠回りをしていたことが、恩師の言葉を振り返ることで、身にしみて分かってきたのである。

 

 レッテル化とは、相手に貼り付けたラベルしか見えなくなることである。人は、一度ラベルを誰かの顔に貼り付けてしまうと、そのラベルのみに注目して、その人の「生命の本当の相(すがた)」を見なくなる傾向があるのであるが、それがレッテル化であり「現象に捉われる」ということである。

 

 レッテルとは、私たちが過去において人やものに対して見聞覚知したところの心の残像にすぎないのであり、そのレッテルだけを見ていたのでは、「今」躍動している生命を把握することができなくなるのは当然のことなのである。重要なのは、そのレッテルを思い切って引っ剥がしてしまうことである。しかしそのためには、自分がこれまで身に帯びてきたところの虚飾を捨て、先入観を捨て、素っ裸になってしまわなければならない。

 

 古事記に登場するアメノウズメノミコトのように、素っ裸になって実相をよろこべば、天照大御神が天の岩戸(レッテル)から、光り輝いて出て来るのである。

 

 しかし、レッテル化していることに気が付かないでいると、私たちは知らないうちにそのレッテル(仮りの相)に縛られて雁字搦(がんじがら)めとなり、さらに無意識のうちに自分を取り巻くすべてのものを次から次へとレッテル化し、挙げ句の果てにそんなもの(レッテル)ばかりに取り囲まれているのかもしれないのである。そんなことでは、生きがいも、夢も、希望も感じられなくなり、誰とも心の交流がなくなり、八方ふさがり(岩戸隠れ)となるのは当然のことだと言わなければならないのである。

 

 レッテル化は、年齢による影響とは全然関係ないのである。10代や20代で、あらゆる人や物や事にラベルを貼り付けて雁字搦めになって、生きがいも夢も希望も見失っている、かつての私のような人もいれば、先日(10月12日)「第31回生光展」のオープニングで挨拶した遊馬正・画伯のように、85歳を過ぎても、いよいよ希望成就のよろこびと、夢の実現に燃えながら、生涯を貫いた祈りの人生を謳歌している人もいるのである。

 

 レッテル化した、出口のない自縄自縛の「天の岩戸」の中でもがき苦しみ、それを求道だ、精進だ、修行だ、と努め励むことも、道を求めている人には大切な通過儀礼である場合もあるのであるが、要はレッテル化をやめ、一切の対象に貼り付けたラベルを剥がし、虚飾を捨て、先入観を捨て、丸はだかの神の子に帰ってみれば、そこに荘厳なる世界が、はじめから横たわっていたことが分かるのである。それは、木や花や風景などの自然の風物だけではなく、一人ひとりの人間も、そこに神秘なる神性・仏性が現前し、顕れよう、溢れ出よう、生長しよう、としていることが見えてくるのである。

 

 谷口雅宣先生が、絵手紙・絵封筒の創作を皆にお勧めになり、芸術的感覚を伸ばす誌友会をご提唱されているのも、私たちが対象をよく観察することで、これまで貼り付けていた心のラベルを剥がし、人類の通念というレッテルを外してしまい、はじめから「今、ここ」に在った神秘なる世界〈真・善・美〉と出合うことが、一つの重要な目的なのである。

 

 奇蹟は、病気が治ることでも、問題が解決することでもない、今、私たちを取り巻く森羅万象こそが「奇蹟」(住吉大神であり観世音菩薩)そのものであることが分かれば、「解決」への道が開け、「治癒」への道が開け、「成就」への道が開けるのである。聖経『真理の吟唱』にある、「心に耳ある者は聴け、心に眼ある者は見よ」(観世音菩薩を称うる祈り)とは、このことを語っているのである。

 

 繰り返すが、虚飾を捨て、先入観を捨て、素っ裸になって、アメノウズメノミコトのように実相を観てよろこんで、現象無しのカラッポになって実相遊戯三昧に生活していれば、天照大御神が天の岩戸から自ら出て来て、高天原が咲(わら)いどよめくのである。

 

  久都間 繁

 

 

 

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2009年10月13日 (火)

フウセンカズラの種

20091008


 これはフウセンカズラの種です。写真をクリックしていただくと、黒地にコントラストも鮮やかなハート形の白地が見えてきます。

 数日前、台風18号の去った「ほったらかし農園」で採集し、テーブルの上に置いてキレイに並べて撮影しようとしましたが、コロコロころがって私の(大きな)手に負えなかったため、台風休暇で家にいた中学1年の娘にコーディネートと撮影を委託することにしました。


20091008b

 ハート形の模様は、おサルの顔のようにも、モダンな芸術作品のようにも、東南アジアの民芸品のようにも見えます。

 北米原産のフウセンカズラ。これが日本をはじめ世界各地に広く分布した理由のひとつに、この種の素朴で愛らしい姿形が好まれたのではないかと思います。

 このハートの種には、私たちを夢中にさせる魅力的な物語がいっぱいつまっているようにも見えます。が、実際に土に植えてみると、7月ごろから次からつぎへと小さな白い花を咲かせ、10月中旬になっても結実の勢いが止まらない大変な繁殖力を持っているところが、この「ハートマーク」の持つ呪術的なパワーなのかもしれません(^^;

「フウセンカズラにあやかりたいものだ!」なんて思っている方! メールで連絡いただければ、この種をひそかにお送りしましょう。お礼は要りませんので、来年の夏か秋にでも、皆さんのブログにスケッチか写真でもアップしていただくか、当ブログに感想でもお寄せいただければうれしいです。

 春先、プランターか庭に植えて、アサガオを育てる要領で支柱を立て、後はホッタラカシて(ときどき水をやって(^^;)おくだけで栽培できますが、食用にはならないのでもっぱら観賞用としてお楽しみください。

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2009年10月10日 (土)

神様からの授かりもの

 与えられた仕事やお役目を無事に全うするために、「失敗しないように」と思えば思うほど、気持ちばかりがあせって、自分や周りの期待に反して、うまくいかない場合があるものだ。

 

「失敗しないように」と私たちが願うことは、それは実は、私たちの内にある大成功が現れ出ようとしているのである。つまり内にある完全円満なる世界が、内にある黄金の人生が、自分で溢(あふ)れ出ようとしているのである。

 

 しかし、内なる宝庫に注目することなく、「しくじる」ことばかりに注目して、「このままではいけない、なんとかしなければ」と、より正確に、より着実に、より仲良く、などと努めれば努めるほど、ふるまいは、ますますぎこちなくなり、挙げ句の果てに癇癪(かんしゃく)などを起こしたり、自暴自棄になって途方に暮れたりするのである。なぜそうなるのかと言えば、それは外見を良くする(現象を整える)ことばかりに捉われているからである。

 

 良いのは外見ではない。良いのは私たちの内にある「実相」のみである。実相のみが真・善・美の宝庫なのである。そこに注目しないで、ありもしない「外見(現象)」をいつまでも握っていたのでは、「しくじらないように」と努めれば努めるほど、心の奥底で「自分は不完全だ」との認識を深めていることになり、それではいつまで経っても不安と混乱とが人生につきまとうことになるのである。

 

 私たちは「しくじらないように」と思う前に、その仕事や使命がどんなにつまらないものに見えたとしても、それは偶然にやってきたのではなく、今の自分に遂行できる最良のご使命がめぐって来ているのだから、内なる真・善・美をもって、誠心誠意努めさせていただけばよいのである。しくじる、しくじらないは、内なる真・善・美をもって臨むか、臨まないかに懸かっているのであり、真・善・美のまことをもって臨めば、決してしくじるようなことはないのである。「背水の陣を敷く」とは、内なる真・善・美、つまり「まこと」をもって事に当たるということである。

 

 今、目の前にあることに誠心誠意努めて取り組めば、そこに「実」(まこと)が顕れるのである。つまり「まこと」とは、実相のことである。「まこと」すなわち実相があらわれれば、その仕事には自ずと智慧・愛・生命・喜び・供給・調和が具現するのである。

 

 これは仕事だけではなく、勉強にも、対人関係にも、治病にも同じことが言えるのである。利害や打算のことを考える以前に、先ずその仕事を愛し、課題(テーマ)を愛し、相手を愛し、お預かりしている私たちの心身を愛し、これら全ての人やものや事を無条件に愛することである。なぜなら、すべては、神様からの授かりもの以外の何ものでもないからである。

 

 久都間 繁

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