読者からの質問に答えて
本欄の読者から、メールで質問をいただいていました。が、仕事などの関係で回答を出すのが伸び伸びになってしまいました(^^;
質問を2ついただいておりましたので、まとめて回答させていただきます。
【質問1】
私たちのこの現象世界は表現するための世界であるといわれていますが、天国的状態を表すためにやはり人は苦行難行といわれる時期があるのではないでしょうか。よく生長の家では苦行難行はいらぬといいますが? そのために大変な努力と精進だけではなく時間もかけ命がけで求めているのです。実相が絶対的力を持って私たちを生かし愛していられるのなら、もっと端的に表現の能力を与えてくださるべきではないでしょうか? 実相があれど現れずではどうしょうもないのでは?
【質問への回答】
今年になってから、私は本部会館での聖典講義で、谷口雅春先生の書かれた『幸福生活論』をテキストにお話しさせていただいていますが、ご本の中に次のご文章があります。
「人生の航路に於いて遭遇する総ての人生体験の意義は「人格」を陶冶(とうや)し向上せしめる鍛錬(たんれん)である点に存します。あらゆる見せかけの困難は、真の神の如き勝利の門に入るための入り口に設けられたる鍵穴に過ぎないのです。その鍵穴にピッタリと当てはまる鍵とならなければならない」(『幸福生活論』70ページ)
このご文章は、さらりと読んでしまうと当たり前のことしか書かれていないように見えますが、読みようによっては実に深い意味を含んでいます。
ここに「人格」というコトバが出てきますが、谷口先生がお説きくださっている「人格」とは、私たち一人一人となって現れた「神の子の個性」という意味に解釈してもいいのではないかと思います。
つまり、人生体験(人生での苦労や修行)の意義は「神の子の個性」を陶冶し向上せしめる鍛錬である、ということになります。
人間は、はじめから「神の子」なのですから、人生体験や苦労や修行によって「神の子」になるわけではありません。
ですから生長の家から見た修行の意味とは、「私たち一人一人に授けられた神の子の個性を向上せしめる」ということであり、平たく言えば、神の顕現である「人格(神の子)」を通して、神の完全円満大調和なる真・善・美の世界を地上にも具象化する、ということになると思います。
以前にも紹介しましたが、聖経『甘露の法雨』には、
「神があらわるれば乃ち
善となり、
義となり、
慈悲となり、
調和おのずから備わり、
一切の生物処を得て争うものなく、
相食むものなく、
病むものなく、
苦しむものなし。」
と書かれているように、私たちが、より智慧深く、愛深く、健康に、豊かに、悦びあふれ、大調和の生活を実現する、ということが、「人生の航路に於いて遭遇する総ての人生体験(修行)」の目的ということになります。
次の「質問2」の回答も、これと密接につながっています。
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【質問2】
今一番ほしいものはこころの安定と平和と「現象なし」打ち切る絶対力です。
願望より想念のほうが強いとよく聞きますが、現在意識があってその下に潜在意識、もっと下は超在意識と、自分の心は自分でもコントロールできなくて、また習慣性がありますと言われると
、はるか遠いところへ神様が行かれていくようで、・・・苦しくなってしまいます。これは、私にとってとても重大な問題なのです。
【質問への回答】
先に紹介した『幸福生活論』の一節は、次のように続いています。
「あらゆる見せかけの困難は、真の神の如き勝利の門に入るための入り口に設けられたる鍵穴に過ぎないのです。その鍵穴にピッタリと当てはまる鍵とならなければならない」(同書、70ページ)
私たちが人生で遭遇する「困難」とは、谷口雅春先生によると、それは「見せかけ」のものであり、「勝利の門に入るための入り口に設けられたる鍵穴」である、ということです。
勝利の門に入るための「鍵穴」に、鍵を入れて回すためには、私たちは「鍵穴」にピタリと入るような無碍自在な「カギ」にならなければなりません。
「神」や「仏」は、宇宙に満ちる大生命であり、無碍自在です。神の子である私たちもまた、本来は無碍自在な生命なのです。そのような神の子は、どのような複雑な「鍵穴」にも自在に(観世音菩薩のように)相を変えて「鍵」を合わせることができるのです。
ところが私たちが、人生のさまざまな問題に直面するとき、それを「困難」と感じるのは、私たちが「人格(神の子)」の周りに十重二十重にレッテルを貼って、「これでなければならぬ」と形や物に捉われいるから、「人格(鍵)」が「鍵穴」に入らない! それが「困難」として感じられるのであり、肉体人間には「難行苦行!」として体感されるのです。
十重二十重に塗り固めたレッテルで生きるのをやめて、素っ裸の「人格(神の子の生命)」で生きるようにすれば、どんな鍵でも回すことができるのです。
弘忍禅師が弟子の慧能(えのう)に向かって、
「米熟するや?」
と質問したことが、谷口雅春先生が書かれた『無門関解釈』「不思善悪」の中に紹介されています。
それに答えて慧能は、
「米熟すること久し。なお篩(ふる)いをかくことあり」
と答えています。
私たちは、修行してから「神の子・仏の子」になるのではなく、はじめから「神の子・仏の子」であり、それが「米熟すること久し」ということですが、その久遠に熟している神性・仏性こそが私たちに現存する「神の子の人格」なのです。
「篩(ふる)いをかくことあり」とは、在るものと、無いもの、とを篩いにかける、つまり「実相」と「現象」(潜在意識も現象です)とを篩いにかけて、「無い」ものを相手にせずに、「在る」もの(神性・仏性)だけを相手にして悦んで生活していれば、「神の子の実相(個性)」が、いよいよ鮮やかに光り輝いてくるのです。
本来無いもの(潜在意識も)を有ると思って相手にしているから、いつまでも迷いが去らずに苦しむのです。迷いや症状とは、出たときが消えたとき、であり、相手にして握りさえしなければ、出た現象はどんどん消えていくのです。
潜在意識も現象にすぎません! 潜在意識を浄めてから、神の子になるのではありません! 主体である神の子の実相のみを相手にして悦んで生活していれば、従者である潜在意識は自然に(自動的に)光明化する(浄まる)のです。それが人生の光明面を観て生きる日時計主義の生活であり、三界唯心所現の法則(横の真理)です。
無いものを「無い!」と、ふるいに掛けて、はじめから在る「内なる光り(神性・仏性)」のみを大肯定して喜び悦んで楽しく生活することが、人生の主人公(神の子)としての絶対主権を取りもどすことであり、その絶対主権(実相)に生かされ浄められて生きるのが、生長の家の「絶対他力」の信仰です。
久都間 繁
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コメント
久都間様
>無いものを「無い!」と、ふるいに掛けて、はじめから在る「内なる光り(神性・仏性)」のみを大肯定して喜び悦んで楽しく生活することが、人生の主人公(神の子)としての絶対主権を取りもどすことであり、その絶対主権(実相)に生かされ浄められて生きるのが、生長の家の「絶対他力」の信仰です。
素晴らしいご指導有り難うございます。こういうやり取りが出来る事こそ本物のIT講師の活動だと思います。
投稿: 堀 浩二 | 2009年10月30日 (金) 11時40分
堀 浩二 様
いつも元気が湧いてくるコメントをありがとうございます。
頂いた質問が全力投球の直球でしたので、私も全力で答えさせていただきました。
自身の信仰を懸けた真剣な質問は、答える講師にとって最良の試金石となりますね。講師自身が救われますね。
投稿: 久都間 繁 | 2009年10月30日 (金) 13時15分
>>無いものを「無い!」と、ふるいに掛けて、はじめから在る「内なる光り(神性・仏性)」のみを大肯定して喜び悦んで楽しく生活することが、人生の主人公(神の子)としての絶対主権を取りもどすことであり、その絶対主権(実相)に生かされ浄められて生きるのが、生長の家の「絶対他力」の信仰です。。。。
まさに鍵穴にぴったりと鍵が当てはまりました。言葉ではうまく表現できないのですが、嬉しさ有り難さが込み上げてまいります、いつもありがとうございます。
投稿: シコク嫁 | 2009年10月30日 (金) 20時34分
シコク嫁さま
>>嬉しさ有り難さが込み上げてまいります
ふるいを掛ける日々を送らせていただくことで、私も最近ようやく「現象無し」「罪無し!」のみ教えの本当の深さ、広大さが少しずつ分かるようになり、日々嬉しさがこみ上げています。
「罪無し!」について発見した悦びを、また折をみて綴らせていただきます。
投稿: 久都間 繁 | 2009年11月 1日 (日) 15時33分