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2009年10月15日 (木)

「レッテル」について②

 今は故人となった生長の家の恩師が、「真理というものは、たとえ子供の口から出たコトバでも、もしそれが真理であれば、子供が語ろうが、誰が語っていようが、真理は厳然として真理だ!」という意味の話を、30年ほど前にして下さったことを、最近ふと思い出したことがあった。

 

 私はかつて、一を聞いて十を知ったようなつもりになっていたが、それもやはり、大変なレッテル化であり、ずいぶん遠回りをしていたことが、恩師の言葉を振り返ることで、身にしみて分かってきたのである。

 

 レッテル化とは、相手に貼り付けたラベルしか見えなくなることである。人は、一度ラベルを誰かの顔に貼り付けてしまうと、そのラベルのみに注目して、その人の「生命の本当の相(すがた)」を見なくなる傾向があるのであるが、それがレッテル化であり「現象に捉われる」ということである。

 

 レッテルとは、私たちが過去において人やものに対して見聞覚知したところの心の残像にすぎないのであり、そのレッテルだけを見ていたのでは、「今」躍動している生命を把握することができなくなるのは当然のことなのである。重要なのは、そのレッテルを思い切って引っ剥がしてしまうことである。しかしそのためには、自分がこれまで身に帯びてきたところの虚飾を捨て、先入観を捨て、素っ裸になってしまわなければならない。

 

 古事記に登場するアメノウズメノミコトのように、素っ裸になって実相をよろこべば、天照大御神が天の岩戸(レッテル)から、光り輝いて出て来るのである。

 

 しかし、レッテル化していることに気が付かないでいると、私たちは知らないうちにそのレッテル(仮りの相)に縛られて雁字搦(がんじがら)めとなり、さらに無意識のうちに自分を取り巻くすべてのものを次から次へとレッテル化し、挙げ句の果てにそんなもの(レッテル)ばかりに取り囲まれているのかもしれないのである。そんなことでは、生きがいも、夢も、希望も感じられなくなり、誰とも心の交流がなくなり、八方ふさがり(岩戸隠れ)となるのは当然のことだと言わなければならないのである。

 

 レッテル化は、年齢による影響とは全然関係ないのである。10代や20代で、あらゆる人や物や事にラベルを貼り付けて雁字搦めになって、生きがいも夢も希望も見失っている、かつての私のような人もいれば、先日(10月12日)「第31回生光展」のオープニングで挨拶した遊馬正・画伯のように、85歳を過ぎても、いよいよ希望成就のよろこびと、夢の実現に燃えながら、生涯を貫いた祈りの人生を謳歌している人もいるのである。

 

 レッテル化した、出口のない自縄自縛の「天の岩戸」の中でもがき苦しみ、それを求道だ、精進だ、修行だ、と努め励むことも、道を求めている人には大切な通過儀礼である場合もあるのであるが、要はレッテル化をやめ、一切の対象に貼り付けたラベルを剥がし、虚飾を捨て、先入観を捨て、丸はだかの神の子に帰ってみれば、そこに荘厳なる世界が、はじめから横たわっていたことが分かるのである。それは、木や花や風景などの自然の風物だけではなく、一人ひとりの人間も、そこに神秘なる神性・仏性が現前し、顕れよう、溢れ出よう、生長しよう、としていることが見えてくるのである。

 

 谷口雅宣先生が、絵手紙・絵封筒の創作を皆にお勧めになり、芸術的感覚を伸ばす誌友会をご提唱されているのも、私たちが対象をよく観察することで、これまで貼り付けていた心のラベルを剥がし、人類の通念というレッテルを外してしまい、はじめから「今、ここ」に在った神秘なる世界〈真・善・美〉と出合うことが、一つの重要な目的なのである。

 

 奇蹟は、病気が治ることでも、問題が解決することでもない、今、私たちを取り巻く森羅万象こそが「奇蹟」(住吉大神であり観世音菩薩)そのものであることが分かれば、「解決」への道が開け、「治癒」への道が開け、「成就」への道が開けるのである。聖経『真理の吟唱』にある、「心に耳ある者は聴け、心に眼ある者は見よ」(観世音菩薩を称うる祈り)とは、このことを語っているのである。

 

 繰り返すが、虚飾を捨て、先入観を捨て、素っ裸になって、アメノウズメノミコトのように実相を観てよろこんで、現象無しのカラッポになって実相遊戯三昧に生活していれば、天照大御神が天の岩戸から自ら出て来て、高天原が咲(わら)いどよめくのである。

 

  久都間 繁

 

 

 

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コメント

 いつもながら本当に素晴らしい御文章で深く感銘しております。

 こうした御文章が生長の家の公式サイトにリンクされているという事実が本当に素晴らしい事だと思います。

 

投稿: 堀 浩二 | 2009年10月15日 (木) 10時57分

 堀さん。いつも励みになるコメントをありがとうございます。

「レッテルについて」などの一連の文章は、聖典講義のためのノートを、日時計日記(自由版)に書き留めていたものをベースにしています。

 講義の準備をしたり、実際に皆さんの前でお話させていただくことで、私たち講師は本当に多くのことを眼に見えない世界から教えられ、導かれていることを実感しますね。

投稿: 久都間 繁 | 2009年10月16日 (金) 13時15分

>>奇蹟は、病気が治ることでも、問題が解決することでもない、今、私たちを取り巻く森羅万象こそが「奇蹟」(住吉大神であり観世音菩薩)そのものであること。。。

そうですよね!そうなんですよね!・・・最近、ちょっとモヤモヤしていた事が、一気に解決しました。ありがとうございます。
>>今、私たちを取り巻く森羅万象こそが「奇蹟」。。。。泣けてきました、ありがとうございます。

投稿: シコク嫁 | 2009年10月17日 (土) 19時39分

シコクさま

>>今、私たちを取り巻く森羅万象こそが「奇蹟」。。。。泣けてきました、ありがとうございます。


 お気持ちよく分かります。私も神想観の折にこの世界を観じさせていただくことで、泣けてきます。

 聖経『真理の吟唱』には、

「観世音菩薩は尽十方無碍光如来の大慈悲の顕現にてありたまう。それゆえに尽十方に満ちたまうのである」(観世音菩薩を称える祈り)

 とありますように、観世音菩薩とは即ち尽十方無碍光如来〈つまり宇宙に充ち満つる光り〉なのですね。

 この光りこそが、生長の家の「唯神実相」の教えで説くところの光明一元(善一元)の世界であり、仏教で説く毘盧遮那仏(ビルシャナ仏)であり、哲学やキリスト教神学でいうところの究極的実在なのです。

 この究極的実在の運動が、今日においては生長の家の「万教帰一」の教えとなり、「国際平和信仰運動」となって顕れているのです。

投稿: 久都間 繁 | 2009年10月18日 (日) 10時16分

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