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2010年1月

2010年1月29日 (金)

長女の一言 ――スキー復活宣言!

先週のこと、2泊3日で中学校のスキー教室に行って、このスポーツの面白さに目覚めた二女(中1)から、「スキーに連れて行って!」と強くせがまれた。

 

しぶしぶ家族を連れて行った山梨県のスキー場。

 

「20年以上やってないから、お父さんは見ているからね」

 

と皆に告げて、ゆっくり本でも読もうと思っていた矢先、間髪入れず返ってきたのが、長女(高1)からの次の一言だ。

 

「お父さん、いま何歳だと思っているの、49歳にもなってそんなこと言っていたら、一生やる機会なくなるよ!」

 

「――――(^^;」

 

ひさしぶりに、おじさんのココロにガツ~~ん! と響いてきた。

 

「よお~し! オヤジの底力見せてやるぞぉ」

 

と、遂に、スキーのセットを娘たちと一緒にレンタルしてしまった。
考えてみれば、スキーの板など履くのは本当に20数年、もしかしたら30年ぶりのことだ。

 

「ええい、ままよ」と、ゲレンデへと飛び出した!

 

恐る恐るリフトに乗り、5分ほど景色をながめていると小高い丘に到着した。が、先ず地面に着地できるかどうかが大変な難題だった。

 

なんとかクリアして、丘に立って眺めると、まっ白な急斜面が眼下に広がり、気が遠くなるようにロッジが、はるか下の方に小さく霞んで見える。
スノーボーダーたちが、すごい勢いで次々と滑降していく。

 

後から、長女と二女も到着した。

 

「とうとう、来てしまったなあ・・・・」

 

まっすぐに滑ったらたいへんなことになるので、こわごわと横に滑り出してはみたが、要領を得ないままいきなり転んで、袖から首から雪まみれになった。
先が思い遣られた。

 

娘たちはと見ると、二女はさすがに、学校のスキー教室で鍛えたばかりで、ボーゲンの姿勢がバッチリ決まっている。

 

そうだ、初心者はボーゲンだ! と、思い出すままに真似て滑りはじめた。

 

が、下に着くまでに、いったい何度転んだことだろう。ふと気が付けば、緊張感と力みすぎと転倒した痛さとで、汗びっしょりになっていた。

 

二女は、とうにリフトに乗ってもう姿が見えない。くだんの長女は私よりも往生して、まだ中腹あたりで転んでいる(^^; そういえば彼女も、実践するのは中学校のスキー教室以来だ。

 

2回目のリフト。知らず知らずのうちに、滑降する人たちの様子をずっと観察していた。するとコツのようなものが観えたような気がして、リフトを下りてそっと実践してみた。

 

①自然体②流れのままに③無理しない、そんなたわいもないことを心がけながらゆっくり滑っていると、ずっと以前の遙かな記憶が、次第に体に蘇ってきた。

 

そして不思議なことに、気が付けば一度も転ばず下まで滑り終えていた。

 

以来、リフトから降りるたびにスムーズに滑れるようになっていた。いったい、身体のどこにそんな記憶が眠っているのか不思議だった。

 

私がスキーを熱心にやったのは10代後半のころ、従姉のご主人のお誘いで、雪の降らない静岡から、毎年のように長野まで、友人知人でマイクロバスを1台チャーターして遠征していたのだが、当時は人工スキー場も、スノーボードも無く、古い時代のスキー板なので背丈以上の長さがあり、とても重かった。それに比べて今の道具の扱いやすさは、隔世の感があった。

 

――それから、娘たちと日が暮れるまで(私のヒザがガクガクになるまで(^^;) 滑っりまくった。

 

子供用のソリのコーナーで遊んでいた小学生の弟たちは、「もうこんな幼稚なことやってられるかい!」とばかりに、自分たちもスキーをやらせてくれ! と主張してゲレンデに飛び出して来た。
しかし、日も暮れてきたし(お父さんの足も、もうぱんぱんなので)、次回のお楽しみということになった。

 

久しぶりのスキーだった。

 

雪と自然にふれて、私の中にあったスキー熱が数十年ぶりによみがえって来るのと同時に、眠っていた十代のころの好奇心や冒険心や遣り残したいろんなものまでが、一緒にめざめてきたようだ。

 

これからスキーを本格的に始めてみようと思っている。

 

あの長女の一言がなかったら、そんな私の内なる世界も、そのまま眠っていたことだろう。

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2010年1月22日 (金)

「ほったらかし農園」冬の土づくり

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1月の初め、友人からビワの苗と、ツルバラの苗をいただきました。

このほか楓の苗と、ロウバイの種もいただいていたので、10日ほど前、野菜作りに差し支えない場所に植樹しました。

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毎年この時期、「ほったらかし農園」では土壌作りの作業をします。近ごろは助手もできたので、大地主になったような気分です。

さて、畑ではEM菌で発酵させた生ゴミをはじめ、発酵牛糞、発酵鶏糞などを、たっぷり土に鋤(す)き込みます。そのまま春までほったらかしておきますが、この間に土の中では、バクテリアやミミズなどがこれを食べて、菜園に適した最良の土壌を作ってくれます。

私たちが畑でしていることは、ミミズや野菜が活躍するための手助けをしているのだということが、最近分かるようになりました。

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 今年はじめの1月4日の夜、仕事から帰宅して、たまたまNHKの『プロフェッショナル仕事の流儀』を視ていました。すると、有機農業で60種類以上の野菜を育てているという埼玉県の農家、金子美登さんのことを紹介していました。

 その年の天候に合わせて、まるで農作物と親しく対話するように、手塩に掛けて野菜類を育てている様子を見て、本当にびっくりしました。
 この人の農業には、自然から学んだ智慧と、自然への謙虚さと、農作物への愛情があふれています。とても私に真似はできませんが、少しでも学ばせていただければと思い、彼の著書『有機・無農薬でできるはじめての家庭菜園―安全でおいしい野菜をつくろう!』を買って読み始めています。
 これから菜園を始めてみようと思っている方、無農薬有機栽培に挑戦しようと考えている方には、それぞれの野菜の育て方について写真や解説がたくさん入っているので、とても参考になる本だと思います。

 

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2010年1月19日 (火)

日時計主義から観た潜在意識

 潜在意識は、「現象の側」に立って見れば、深い闇のようにも見えるのである。

 

 しかしそれは、潜在意識が暗闇なのではなく、ただの心の影(幻影)を、そこに映し出して見ているに過ぎない。

 

 生長の家では、「現象は心の影である」と教えられている。「現象の側」に立って潜在意識を眺めてみれば、暗闇の如く、無秩序の如く、不定形の如く、底なしの如く、心の眼に映るのである。

 

 一方、「実相の側」から潜在意識を観れば、「光り」以外の何ものでもないのである。

 

 神想観で私たち生長の家信徒は、「神の無限の智慧の海なり、神の無限の愛の海なり、神の無限の生命の海なり――」という言葉を唱えるが、潜在意識を「実相の側」から観れば、まさしく神の無限の智慧の海、無限の愛の海、無限の生命の海であり、神の生命充満せる、歓喜と光明に充ち満ちた世界であることが、この言葉を唱えるによって花開いて来るのである。

 

 要は私たちの視点が、「現象の側」に立って見るか、それとも実相の世界に帰命して観るか、そこが天下分け目であり、前者は暗黒主義に堕ち、後者は日時計主義を掲げて地上天国を謳歌するのである。しかしながら、暗黒主義もやがて飽きるときがくるのである。

 

 日時計主義とは、人生の光明面を見る生き方であると教えられているが、光明面とは、即ち「実相面」ということである。光明面を見るとは、実相・実在のみを相手にする、ということであって、現象を相手にすることではないのである。

 

 一方、暗黒面とは、言い換えれば「現象面」ということである。現象は心の影に過ぎないが故に、どこどこまでも実体がないのである。実体無きが故に、暗黒、無秩序、罪、悪業、老・病・死として崩壊する様が、五感の感覚で認識されるのである。

 

「現象の側」に立って、幻影を投影した潜在意識を見て、これを「浄めよう」とすることは、それは信仰初期の段階の求道者には、有効なアドバイスともなるのである。

 

 しかし、神想観を日々実修しているのであれば、これから浄めなければならない潜在意識などという「心の幻影」を、いつまでも相手にしていてはならないのである。

 

 なぜなら、繰り返すが「実相の側」から観れば、潜在意識とは「神の生命」充ち満つる、真如法海(実相世界)以外のなにものでもないことが、次第に分かってくるからである。そこは、はじめから浄まり切っているのである。それどころか光りに充ちあふれた歓喜充満の世界なのである。

 

 つまり、潜在意識と見えていたものは、実相から観れば、神の無限智、無限愛、無限生命そのものであり、豊饒なる無尽蔵の光の大海原がどこどこまでも光明燦然と広がっているのである。

 

 そもそも、なぜ潜在意識と言うのかと云えば、「無尽蔵の智慧」が〝潜在〟しているからであり、「無尽蔵の愛」が〝潜在〟しているからであり、「無尽蔵の生命」が〝潜在〟しているからである。これが日時計主義から観た「潜在意識」の実相(ほんとうのすがた)である。

 

 大光明が潜在する世界(意識)は、今さら浄めるようなものではない。浄めなければならないのは、潜在意識に対する、これまでの私たちの見方(レッテル化)にほかならない。

 

 もし、「罪」があるとすれば、それは大光明なる潜在意識に、現象世界の幻影を上塗りしていた私たちの誤った認識が、実像を曇らせる罪(包み)となって見えていたのである。

 

 聖書に説かれた、「汝らもし盲目なりしならば、罪なかりしならん。されど今は見ゆと言う汝らの罪はのこれり」(ヨハネ9・41)とは、この「現象の側」に立脚して見る世界を示しているのである。

 

 しかし、そんな「現象の立脚点」など、はじめから無いのである。この誤った認識を払拭し、大光明が潜在する世界(意識)へと目覚めることが、生長の家で云う「大懺悔」ということである。

 

 それは、「これから浄めなければならないような潜在意識など、はじめから無い!」との認識によって、これまで曖昧模糊なものと捉えていた潜在意識が、罪・業の集積と見えていた潜在意識が、神の無限智、無限愛、無限生命満つる大生命そのものであったことが観えてくるのである。

 

 これが般若心経の冒頭で、観自在菩薩が五蘊皆空と「照見」した世界である。つまり神想観さえすれば誰でもやがて開ける実相独在の眼(実相覚)をもって観れば、森羅万象の実相が、荘厳なる蓮華蔵世界が、今ここに花開いてくる、それが生長の家のみ教えが説き明かした世界の不思議であり、あとは三界唯心所現の法則に委ねればよいのである。

 

 繰り返すが、これまで、「罪」や「業」の集積の如く認識していた潜在意識とは、「現象の側」に立って幻影を投影して見ていた(心のカゲ)に過ぎない。しかし潜在意識そのものは、実は神の生命充満せる光りの世界だったのである。これをハッキリ知ることが「浄める!」ということであり、「救われる」ということである。

 

 先祖の業も、自身の業も、罪も病も死も、そんなものは全て現象に漂う幻影に過ぎない。そんなものは、はじめから無いのである!

 

 潜在意識とは、即ち大光明(神性・仏性)が潜在する世界(意識)であることを、幼な兒の如く、無限智、無限愛、無限生命の言葉とともに素直によろこび、こころに唱えたとき、龍宮城への扉が開かれるのである。

 

 

  久都間 繁

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