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2010年1月19日 (火)

日時計主義から観た潜在意識

 潜在意識は、「現象の側」に立って見れば、深い闇のようにも見えるのである。

 

 しかしそれは、潜在意識が暗闇なのではなく、ただの心の影(幻影)を、そこに映し出して見ているに過ぎない。

 

 生長の家では、「現象は心の影である」と教えられている。「現象の側」に立って潜在意識を眺めてみれば、暗闇の如く、無秩序の如く、不定形の如く、底なしの如く、心の眼に映るのである。

 

 一方、「実相の側」から潜在意識を観れば、「光り」以外の何ものでもないのである。

 

 神想観で私たち生長の家信徒は、「神の無限の智慧の海なり、神の無限の愛の海なり、神の無限の生命の海なり――」という言葉を唱えるが、潜在意識を「実相の側」から観れば、まさしく神の無限の智慧の海、無限の愛の海、無限の生命の海であり、神の生命充満せる、歓喜と光明に充ち満ちた世界であることが、この言葉を唱えるによって花開いて来るのである。

 

 要は私たちの視点が、「現象の側」に立って見るか、それとも実相の世界に帰命して観るか、そこが天下分け目であり、前者は暗黒主義に堕ち、後者は日時計主義を掲げて地上天国を謳歌するのである。しかしながら、暗黒主義もやがて飽きるときがくるのである。

 

 日時計主義とは、人生の光明面を見る生き方であると教えられているが、光明面とは、即ち「実相面」ということである。光明面を見るとは、実相・実在のみを相手にする、ということであって、現象を相手にすることではないのである。

 

 一方、暗黒面とは、言い換えれば「現象面」ということである。現象は心の影に過ぎないが故に、どこどこまでも実体がないのである。実体無きが故に、暗黒、無秩序、罪、悪業、老・病・死として崩壊する様が、五感の感覚で認識されるのである。

 

「現象の側」に立って、幻影を投影した潜在意識を見て、これを「浄めよう」とすることは、それは信仰初期の段階の求道者には、有効なアドバイスともなるのである。

 

 しかし、神想観を日々実修しているのであれば、これから浄めなければならない潜在意識などという「心の幻影」を、いつまでも相手にしていてはならないのである。

 

 なぜなら、繰り返すが「実相の側」から観れば、潜在意識とは「神の生命」充ち満つる、真如法海(実相世界)以外のなにものでもないことが、次第に分かってくるからである。そこは、はじめから浄まり切っているのである。それどころか光りに充ちあふれた歓喜充満の世界なのである。

 

 つまり、潜在意識と見えていたものは、実相から観れば、神の無限智、無限愛、無限生命そのものであり、豊饒なる無尽蔵の光の大海原がどこどこまでも光明燦然と広がっているのである。

 

 そもそも、なぜ潜在意識と言うのかと云えば、「無尽蔵の智慧」が〝潜在〟しているからであり、「無尽蔵の愛」が〝潜在〟しているからであり、「無尽蔵の生命」が〝潜在〟しているからである。これが日時計主義から観た「潜在意識」の実相(ほんとうのすがた)である。

 

 大光明が潜在する世界(意識)は、今さら浄めるようなものではない。浄めなければならないのは、潜在意識に対する、これまでの私たちの見方(レッテル化)にほかならない。

 

 もし、「罪」があるとすれば、それは大光明なる潜在意識に、現象世界の幻影を上塗りしていた私たちの誤った認識が、実像を曇らせる罪(包み)となって見えていたのである。

 

 聖書に説かれた、「汝らもし盲目なりしならば、罪なかりしならん。されど今は見ゆと言う汝らの罪はのこれり」(ヨハネ9・41)とは、この「現象の側」に立脚して見る世界を示しているのである。

 

 しかし、そんな「現象の立脚点」など、はじめから無いのである。この誤った認識を払拭し、大光明が潜在する世界(意識)へと目覚めることが、生長の家で云う「大懺悔」ということである。

 

 それは、「これから浄めなければならないような潜在意識など、はじめから無い!」との認識によって、これまで曖昧模糊なものと捉えていた潜在意識が、罪・業の集積と見えていた潜在意識が、神の無限智、無限愛、無限生命満つる大生命そのものであったことが観えてくるのである。

 

 これが般若心経の冒頭で、観自在菩薩が五蘊皆空と「照見」した世界である。つまり神想観さえすれば誰でもやがて開ける実相独在の眼(実相覚)をもって観れば、森羅万象の実相が、荘厳なる蓮華蔵世界が、今ここに花開いてくる、それが生長の家のみ教えが説き明かした世界の不思議であり、あとは三界唯心所現の法則に委ねればよいのである。

 

 繰り返すが、これまで、「罪」や「業」の集積の如く認識していた潜在意識とは、「現象の側」に立って幻影を投影して見ていた(心のカゲ)に過ぎない。しかし潜在意識そのものは、実は神の生命充満せる光りの世界だったのである。これをハッキリ知ることが「浄める!」ということであり、「救われる」ということである。

 

 先祖の業も、自身の業も、罪も病も死も、そんなものは全て現象に漂う幻影に過ぎない。そんなものは、はじめから無いのである!

 

 潜在意識とは、即ち大光明(神性・仏性)が潜在する世界(意識)であることを、幼な兒の如く、無限智、無限愛、無限生命の言葉とともに素直によろこび、こころに唱えたとき、龍宮城への扉が開かれるのである。

 

 

  久都間 繁

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コメント

はじめてコメントします。

本日のメッセージは目から鱗でした。上手く書けませんが、このような視点から潜在意識を捉えるのははじめてでした。はじめてですが初めてですね。

でもどこか懐かしいもので出会ったような感覚です。

ありがとうございました。

投稿: 鉄腕アトム | 2010年1月28日 (木) 21時37分

>>でもどこか懐かしいもので出会ったような感覚です。

私も生長の家の「唯神実相」の教えに出合ったとき、とても懐かしいものを感じました。
それは、ずっと以前から(生まれる前から)知っていた、そんな感覚で、信仰生活とはその懐かしさが深まることのように最近は思えてきました。

投稿: 久都間 繁 | 2010年1月29日 (金) 10時34分

初めてコメントさせていただきます。
よろしくお願いいたします。

昨年末ごろまでは、潜在意識は暗黒の不浄なものが渦巻いているところなので浄化しなければ、という捉え方をしておりました。

しかしこのところ、気にならなくなった様に思います。忘れていると申しますか。
そんなことよりも悦びを味わいたい。

「そういう事じゃ無かったんだなー」とやんわり確信を得られているような気がいたします。

ありがとうございました。

投稿: 秋元政人 | 2010年5月 4日 (火) 18時33分

秋元さま、コメントをありがとうございました。

>>潜在意識は暗黒の不浄なものが渦巻いているところなので浄化しなければ、という捉え方をしておりました。

「潜在意識を浄化する」とは、光一元の「唯神実相の世界」を観じ、喜ぶことです。

 それが観自在菩薩が「智慧の光」で照見し給うことであり、生長の家の神想観であり、絶対他力の信仰の世界です。観じることも、喜ぶことも、仏が観じ、神が生命(光り)が成し給うのです。

投稿: 久都間 繁 | 2010年5月 5日 (水) 10時04分

はい!ありがとうございますshine

投稿: 秋元政人 | 2010年5月 6日 (木) 11時20分

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