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2010年2月

2010年2月27日 (土)

「あや絵――川崎是空の世界」を観る

 生長の家芸術家連盟の運営委員で染織家、しかも生長の家地方講師でもある川崎是空先生(88)の作品展「あや絵――川崎是空の世界」に、生芸連のメンバーと一緒に行って来た。

 

 秋葉原から、筑波エクスプレスに乗車して守谷駅で下車、その後「猿島(さしま)」行きのバスにゆられて約1時間ほどすると、「さしま郷土館ミューズ」(板東市)のある、終点の「猿島」バスターミナルに到着。

 

 出迎えてくれた川崎先生の案内で館内に入ると、そこには「祈りの結晶」のような、約60点の作品が展示されていた。

 

 仏画、天人・天女、ケルン大聖堂、牧場、鳥、どの作品を見ても、川崎先生が観ている「仏の世界」が極印されているようで、なぜ、これほどの芸術が、世に広く知られていないのかが不思議に思えてきた。

 

「あや絵」は、川崎先生の独自の創作によるもので、金糸・銀糸・絹糸によって織られた生地を、絵柄に合わせて裁断した後に丹念に貼り合わせて作品に仕上げたものである。生地を貼る角度に緻密な工夫があり、見る者の視点が移動することで、光線が織り目に反射して、作品の表情が千変万化するところがおもしろい。

 

 作品の制作は、下絵を含めて3カ月から半年、長期のもので約1年の歳月をかけて作られるそうである。

 

 川崎先生に、「あや絵」を始めた切っ掛けを聞くと、興味深いことをお話ししてくださった。

 

 それは今から30年ほど前の60歳のころ、染織家たちが着物の普及に捧げてきた尽力を踏みにじって、「キモノはもう流行らないから」という理由で、店の側がこれまでの恩義を忘れて安価な品物だけを扱うようになり、しかも若い作家の作品を安く買い叩いて商売するようになったそうである。

 

 そんな商売の姿勢をみた川崎先生は、「もうこの仕事を辞めようと思う」と家族に伝えたそうだ。奥様は、「分かりました、そのようにさせていただきましょう」とお応えになり、以来今日まで、売れる見込みのまったくない「あや絵」という独自の世界を拓き、その制作一筋に歩んできたそうである。

 

 奥様は、「作品を制作する条件さえ整えてあげれば、あとは手のかからない人ですから――」と笑顔で語っておられたが、それはそれでご苦労も多かったことであろう。

 

 川崎先生は、「やっぱり信仰が第一です。こんな道楽が続けられるのも、生長の家の無限供給のおかげ。なんとか食べていけたのも、いろいろな人が、こんなワシを引き上げてくださったから」と語っている。

 

 展覧会に足を運んだことで、川崎先生の創作の原点が、ハッキリと確認できた思いがした。

 

 私を含め、小杉繁良画伯(生芸連委員長)はじめ同行した面々は、川崎先生の精力的な創作活動に一様に驚いていたが、それは彼の深い「祈り」が、「あや絵」となって花開いていたのである。

 

 私はしっかり心の眼に、彼の作品を焼き付けてきた。しかし何度も訪れたくなるような衝動に、今も駆られている。実際に何遍も足を運ぶ人たちがいるそうだ。それはきっと、作品を観ることが、即ち川崎先生の純粋な祈りの世界にふれることになるからだろう。それほど崇く、深く、そして清らかで美しいのである。

 

 日本の着物の染色という伝統的技法が、「あや絵」という独自の世界となって実を結んだ。そんな作品が一堂に会することによって、川崎是空という芸術家の魂の全容が観えてくる。

 

「あや絵」という性質上、写真を介してでは決してその美を再現できないところが、作品の知名度を低くしている理由なのかもしれない。

 

会期は3月7日まで。もうこんな機会はないかもしれない。川崎先生は、奥様とともに毎日会場にお顔を出しておられる。

 

 久都間 繁

 

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会 場:「さしま郷土館ミューズ」(茨城県板東市)
入場料:無料
詳細は〈http://www.city.bando.lg.jp/facilities/culture/muse/〉

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2010年2月16日 (火)

「長女の一言」②ボーゲンからパラレルへ

長女の一言からはじまった私のスキーライフだが、あれから道具を調達し、2回ほど日帰りでスキー場に足を運んだおかげで、30年ぶりにパラレルまでこなせるようになった。

 

たかがパラレルだが、成人してから取り組んだ本格的なスポーツが山登りだけだった私にとって、今回の経験は、「ああ、こんな楽しい世界がまだ自分に残されていたのか!」との、驚きと感激に満ちたものなのだ。
それはまるで、封印していた十代のころの自分が、私の内部から、突如として目覚めてきたような感覚なのである。

 

たとえば、朝から一緒に滑っていた小・中学生の家族が、午後3時半を回ると次々と満足してリタイアするなかで、「おとうさん、もういい加減にしてよ!」とあきれ果てているのを後目(しりめ)に、日暮れ近くまで滑っても、ますます研究と興味が尽きないのである!(足はぱんぱん、身体はふらふらだけどね(^^;)

 

さらに、私は自動車の運転があまり好きではないのだが、アイスバーンを含む片道2時間半の道のりをものともせずに往復するほどスキーに引かれてしまっている始末なのだ(^^;

 

次は、スキーについて『日時計日記』(自由版)に書いた、私の密やかな研究の一端である。
遊びと求道とが、どこかで一つに繋がっているところが面白い。出費も学費と見こんで、深く入れ揚げている所以である(^^;

 

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昨日は、パラレルの滑りをほぼマスターすることができた。ボーゲンはこれで卒業したのだが、面白いことにボーゲンの記憶が、パラレルへの移行を邪魔するのである。

 

これはスキーの技術だけではなく、真理においてもまったく同じことが云えるのではないだろうか。基礎的なものは重要であり、初心者はそこを徹底されるわけではあるが、いつまでもそこに留まっていてはいけないのである。

 

基礎にも二通りある。一つは「型から入る基礎」であり、もう一方は「根元的な基礎」である。

 

「型から入る基礎」は、やがてはそこから卒業しなければならない基礎である。「つまり型から入って、型から出る」という、武道などでも応用されている基礎練習のことである。
一方「根元的な基礎」は、いつもそこに帰らなければならない出発点であり、最終的な目的地となるものである。

 

前者は、エーテルの説や潜在意識の説など、その時代の学説をもとにした教義にたとえることができる。一方、後者は、「唯神実相」「三界唯心」の教えである。

 

いつまでも型に留まっていたのでは、いつまでもボーゲンにこだわっていて、より楽しく、より難所を自由自在に滑りこなすことの出来るパラレルターンへと移行できないようなものである。

 

ボーゲンは重要な基礎的練習なのではあるが、それは入り口に過ぎない。賛否両論分かれるかもしれないが、潜在意識についての従来の考え方も、やはり「入り口」にすぎないと私はみている。

 

しかしボーゲンにしてもパラレルにしても、それを支えるのは基礎的な体力・筋力である。これを「真理への道」に当てはめてみれば、それは「観の力」や「観の深さ」ということにほかならないであろう。観の力は、神想観に習熟することによって開かれるのである。それは祈るほどに深まり、実相を観ずるこころの眼が開くのである。

 

基礎的な体力・筋力がなければ、ボーゲンやパラレルの修得に、それなりの習熟の時間を要するように、観の力も、じっくり実修することによって、誰でも必ず「実相」を観る眼が開けてくるのである。

 

その観によって、意識の深層を観れば、それは森羅万象の海(生み)の底である龍宮海(存在の根源世界)であり、乙姫(コトバの「音秘め」)の世界にほかならないことが観えてくるのである。

 

生長の家の信徒行事要目に、「毎日一回は必ず神想観を実修して人生を光明化すべし」とあるのは、祈りこそが人生を光明化し、地上天国を開く鍵であり、生長の家における最も重要な修行の一つであることを教えてくださっているのである。

 

(2月14日  日時計日記より)
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 久都間 繁

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2010年2月14日 (日)

「法施」と「物施」―読者からの質問に答えて

ブログの読者から質問を頂きました。
「信仰生活」をめぐっての質問であり、皆さんの参考になるかもしれませんので、回答を公開させていただきます。

 

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【読者からの質問】

 

初めまして。私はSといいます。ブログを拝見させて頂きメール致しました。
私は生長の家の信者ではないのですが、日々神想観を実修するものです。
神想観は、本当に素晴らしい観法ですね。
神想観実修をさらに実り深いものにしたく、ご質問させて頂きたく存じます。

自身を省みて、神想観を自己救済のみに活用していること、伝える実践を怠っていること、しかし自身の感得したことを一般の方々に伝えることの難しさを感じていることからモヤモヤ感を感じています。
実修により、魂の覚醒めと生活の調和を頂き、誠に感謝であります。

 

ただ、現象界は幻の世界とはいえ、たいへん不自由な世界であり、私自身も皆様と同様魂の磨きのために課題が与えられています。そして一般の方々の求むるところは、禅定修行による智慧・解放ということではなく(もちろん魂は求めていると思うのですが )、もっと現実的・物質的に生活がすぐに楽になれる方法があれば知りたい、といったところではないかと思われます。これらの方々に単に「現象は無い!」と言って果たして伝わるであろうか、というと難しいと感じるところです。

 

私は谷口雅春先生をたいへんご尊敬申し上げておりますし、御教えである光明思想は本当に素晴らしい教えであると思っているのですが、上記の点により、残念ながら救済力にやや限界があるのでは・・・とも感じております。(むろんこれは批判ではありません。)

どうか、私の神想観実修の境地がさらに深まりますと共に、一般の方々に如何にして真理を伝えていけば良いのか、ご指導を賜りたく存じます。
どうぞ宜しくお願い致します。
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【質問への回答】

 

ご質問ありがとうございます。神想観を実修して、魂が目覚め、生活に調和した世界が実現しているとのこと、素晴らしいことですね。
さて、ご質問ですが、

 

① 一般の方々の求むるところは、禅定修行による智慧・解放ということではなく、もっと現実的・物質的に生活がすぐに楽になれる方法ではないか
②これらの方々に単に「現象は無い!」と言って果たして伝わるであろうか、というと難しい――残念ながら(生長の家の)救済力にやや限界があるのでは

 

以上のことでよろしいでしょうか。

 

 まず、あなた様のご質問の中で、

 

「自身を省みて、神想観を自己救済のみに活用していること、伝える実践を怠っていること、しかし自身の感得したことを一般の方々に伝えることの難しさを感じていることからモヤモヤ感を感じています」

 

ということですが、ある時期までは「自己救済」ということが神想観の重要なテーマとなりますので、このような「モヤモヤ感」を感じておられるということは、あなたのいのちが、次なる段階へと生長される時期を迎えているのだと思います。

 

 すでにあなた様は「(神想観によって)魂の覚醒めと生活の調和を頂き」というご経験をされていますので、モヤモヤ感の寄って来る原因というのは、「神想観を自己救済のみに活用していること」から生じていることは、おっしゃる通りだと思います。
 
 祈りの世界というのは、自と他との障壁を超えた世界(実相世界)との融合であり、自他一体の世界に入り、天地万物を無条件に愛する(感謝する)、という対称性の領域(大調和の世界)にまで達しますから、祈りと実生活との間に矛盾が生じている場合、それがモヤモヤ感となって現れるものです。

 

例えば、わが家には子供が何人もおりますが、成長とともに服や靴が窮屈になり、乳歯が抜けて永久歯へと生え替わるという「肉体的・モヤモヤ感」を度々訴えています。が、あなた様の場合は、言ってみれば魂の生長がもたらした「霊的・モヤモヤ感」とでも表現できるのではないかと思います(^^;

 

ですから、あなた様のおっしゃるように「一般の方々に如何にして真理を伝えていけば良いのか」というご質問は、あなた様の内に宿る、神性(仏性)からのメッセージにほかなりません。

 

さて、一般の方々が「現実的・物質的に」救われる方法ですが、物質的にどんなに救われたように見えたとしても、「諸行無常」はこの世(現象世界)の理(ことわり)なので、その現象的な次元(段階)に価値をおいて生活している間は、得たかと思えばまた失い、成就したかと思えばまた次の課題が現れ、次の壁が立ちふさがり、次の不安が、と次々と人生に見舞ってきます。

 

 つまり、現象の「結果の側」に住み、「結果としての(現象的な)救い」のみを目的にしていたのでは、未来永劫、「心の影(現象)」に振り回されることになります。

 

生長の家では、この世は「心の作る世界」(三界は唯心の所現)であると説いていることは、あなた様はすでによくご存じのことでしょう。

 

谷口雅春先生は「済んだことの中に生活せず、今の中に生活せよ。今は常に輝いている」という意味のコトバをどこかでお説きくださっていましたが、「済んだこと」とは現象のことです。「今」とは生命のことです。

 

「済んだこと」の中で生活していたのでは、永遠に「楽になる」ことはありません。
「今」の中に生活すること。つまり、あなた様のように神想観(祈り)を生活の中心に据え、内部神性にもよおされて、自他を愛することを素直に実践することこそが、人生に光明生活を実現するための秘訣なのです。

 

 一時的な楽、一時的な救い、一時的な満足、そのような「救い」は、ただ諸行無常を流転しているだけであり、本当の「救い」ではありません。

 

 したがって、あなた様のおっしゃる「現実的・物質的に生活がすぐに楽になれる方法」とは、「焼け石に水」ではありますが、新しい方々を導くための方便(物施)としては有効な場合もあります。

 

 しかし、根本(心)が変わらない限り、たちまちその方法は行き詰まることでしょう。そこから先の道は、「現象は無い!」など、その人の気根に応じた一転語(法施)によって、「今」を生きる祈りの生活へと、時間を掛けて(ひたすら祈りながら)しっかりとお導きすることが大切なのです。それが生長の家の講師活動が「菩薩行」である所以(ゆえん)です。

 

 それが愛の道であり、彼が他のもの(物質、お金、教祖、本尊などの現象)に頼ることなく救われる、根本的な救いの道なのです。

 

久都間 繁

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