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2010年3月

2010年3月28日 (日)

小学校卒業式でのPTA会長あいさつ

 過日、私がPTA会長を務める小学校で卒業式が行われた。

 

 事前に簡単な挨拶文を考えていたのだが、前日に顔を洗っているときに、まったく別の着想が浮かび、その日の仕事が一段落して夜中に挨拶文を書き直して、翌朝にまとめることになった。

 

 スピーチの出番が来るまでに、お話しする内容を頭に入れる予定でいたところ、いざ学校に出向いて、式にお越し下さった30人ほどの地元の名士や来賓の皆さんに、応接室で会長として次々と挨拶やお話しを交わしているうちに、講堂に入場する時間が来てしまったのである(^^;

 

 そして卒業式に参列し、来賓席に座ってみると、卒業式ならではの独特の厳粛さに、これまでなんどか座ったことのある保護者席とは違った、妙な緊張感がわいてきたのである。

 

 するとどうしたことだろう、なんど原稿に目を通しても、自分で書いた文章なのに、ぜんぜん頭に入らない!

 

 よし、こうなったら棒読みだ! と思ってはみたものの、先に発表した学校長と教育委員会の方のスピーチが、彼らの責任ある立場上、事前に用意した「式辞」を読むことに終始していたので、「一人ぐらいは型にはまらないお話しをしなければ生徒に申し訳ない(面白くない)し、それこそが自分にしか出来ないお役目だ!」との思いも、ふつふつと湧いては来るのだが、いかんせん出番の時間が迫る中での緊張感に支配されて、焦りはないのだが、なぜか気がそぞろなのである(^^;

 

 そうこうしているうちに名前が呼ばれたので、心を整えながらゆっくりと演壇に立った。

 

 唯一憶えることのできた、生徒や保護者、先生方へのあいさつの三行を、会場に目を向けながら緊張しつつお話しして、次の文章に目をむけるてみると、下書きのためA4版に印刷した小さな文字なので、こちらも目がかすんで、全然読むことができない(^^;

 

――ということが判明したとき、突然、迷いが吹っ切れてしまった!

 

 一人一人の生徒の顔を見ながら、原稿など目もくれずに、卒業生と目と目を交わしながら、魂からあふれ出るコトバのままに、気が付けば悠々とお話ししていたのである。

 

 最初から、原稿などには頼らない! と決めてかかればよかったのだが、そこは私も会長1年生、まだまだ未熟なところだらけなのだ。でも、その未熟さとの出合いが、同時に「未見の吾」との出合いでもあり、それがとても初々しくて、「まだこんな(かわいい)ところがあったのか(^^;」と、なぜか楽しいのである。

 

 だから読者の皆さんにも、それぞれの地域社会で、責任あるお役に就く機会が訪れたら、それは時節がめぐって来たのだと思ってぜひ就任されることをお勧めしたい。

 

 私たちの内に宿る無尽蔵の能力は、このような未知の環境の中に居てこそ伸びもし、人類や地域社会のお役にも立てるのである。

 

 以下は、挨拶のための下書きである。

 

 この着想をベースに、あとは会場の皆さんに引き出されるままにお話しさせていただいたのである。

 

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 卒業生の皆さん、本日はご卒業おめでとうございます。

 

 また、保護者の皆様、お子様たちの門出となる今日の佳き節目の日を、心よりお祝い申し上げます。

 

 そして、6年間お世話くださった先生方、本当にありがとうございました。

 

 さて、皆さんは4月から中学校に入学しますが、これからいろいろな新しい出会いがあると思います。その中から、ぜひ、わくわくするような、心弾むようなことを見つけていってください。

 

 それは、待っていても、むこうからやって来る場合もありますが、やって来なければ、ぜひ自分から探しに行ってください。

 

 そして、それを見つけたら、その都度それに夢中になって打ち込んでみてください。

 

 その努力は、皆さんの将来の仕事にまっすぐにつながっていますし、皆さんの「夢」の実現につながっています。

 

 また、わくわくするようなことをやっていれば、皆さんの脳も、心も、体も、フル回転するようになります。

 

 そしていろいろな良きアイディアが、次から次へと浮かんでくるようになります。

 

 ですから、もし皆さんが自分の「夢」を前にして、私にはそんな能力がないとか、わが家では経済的に無理だ、とか、自分は頭が悪いからダメだとか、そんなことを自分で勝手に決めつけて、皆さんの大切な「夢」を見限らないでください。

 

 人生には迂回路はいくらでもありますし、

 

 皆さん自身の「夢」は、それが実現されるときを待っているのですから。

 

 だから皆さんは、自分自身の「内なる願い」に対して、どこまでも、どこどこまでも、正直であってほしいと思います。

 

 皆さんの内に在る「夢」は、それは在ればこそ出てくるのですから、ワクワクするような「夢」を描いて、これから出合う一つ一つのことに、一所懸命に取り組んでいけば、必ず道は開け、皆さんの「夢」は、いつの日か、必ず実現します。

 

 その日の来ることを、ここにいる先生方や、ご家族の皆さま方と一緒に、わくわくしながら待っていたいと思います。
 
 以上をもちまして、私のお祝いの言葉とさせていただきます。

 

 

  久都間 繁

 

 

 

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2010年3月 7日 (日)

「森への公案」わが家では――

 生長の家本部事務所が「森の中のオフィス」へと移転することをめぐって、谷口純子先生がブログ「恵味な日々」の中で「森の中へ行く」と題してお書きくださっている。
 その中で先生は、

 

>>生長の家の本部が森に移転するということは、自分たちの好みで行くわけではないのです。

 

>>職員もたくさんいて、家族の人たちは生活の基盤が東京にあります。そのことも十分承知の上で、私たちは森に行くことを決めました。

 

>>神の御心にかなう生き方は何かを自分自身に問いかけ、肉体人間の欲望を捨てるという、難しいことではありますがその決意を、生長の家の本部の人たちはしていることと思います。

 

 と、綴られている。
 このご文章を拝読させていただいて、あらためて本部に勤める私たちの、講師としての使命や、森へ行くことの意義などを確認させていただきました。

 

 森に行くことをめぐっては、本部事務所の皆さんはそれぞれの家庭の事情を抱えながら、それぞれのお立場で、純子先生が経てこられたと同じ、または別の葛藤を抱かれているのではないかと思う。

 

 かく言う私自身の家庭でも、在学中の4人の子供を育てている親として、「子供たちの進学」ということが、ひとつの「公案」となっている。

 

 本部が山梨県の「森の中のオフィス」に移転するちょうど1年前、つまり2012年4月、東京のわが家では長女が大学に入学し、次女が高校に入学し、長男が中学に入学し、そして次男が小学五年へと、それぞれ進学する予定だ。したがって、森に行く翌2013年には、上の3人が入学した学校で、それぞれ2学年へと進級する時期に当たっている。

 

 かつて10年ほど前に、京都の宇治別格本山にいた私に辞令が下り、本部への転籍ということで、宇治市から東京に転居したことがあった。その折、当時小学1年生で転校した長女が、新しい環境になじめず登校拒否になったことは、以前に当ブログの「PTA総会でのあいさつ」で紹介させていただいたが、そんな経験から、学年途中での転校を避けたい、という「親心」が、どうしても夫婦の間で働いてしまうのである。

 

「行き詰まりはない」世界であるから、そのまま運命に委せておけば道は開けるのかもしれないが、家族の声を聴くことも、自然の声を聴くのと同様、重要なことであり、この公案の解決なくしては、家族を安心して森に連れて行くこともできないのである。

 

 もうひとつの公案は「家のローン」返済の問題である。あるいは森に行く前に、何処かに転勤ということもあり得るが、それはそれで「神のみぞ知る世界」の話である。

 

「日時計日記」(自由版)に、そんなことを書き、この「神のみぞ知る」というコトバを綴っているとき、ふとわが家の「森への公案」を解くヒントが、ここにあるような気がしたので、ブログでも公開することにした。

 

「神のみぞ知る」ということは、すべてのことは「完全円満なる神が知っている」ということではないだろうか――

 

 だとすれば、私たちは、なにも思い煩う必要などないのかもしれない。

 

 転校、それも善し。定年まで家のローンを抱えての引っ越し、それもまた善し(^^;

 

 すべては、神のみぞ知る世界の中で営まれているのであるならば、すべての人にとって、一番善い時期に、一番善いことが起こる。

 

 それが「神のみぞ知る、大調和の世界」の消息なのである。

 

 さらに内なる声は云う――

 

 汝ら思い煩うことなかれ。すべては完全円満なる神の中(うち)に営まれているのであることを知れ。その中に委ねきるとき、万事好都合に事は運ぶのである。万事好都合とは、神の完全円満なる実相世界が現れる、ということである。だから万事好都合にいくためには、ただ神の世界に入るだけでよいのである。

 

 神の外に「好都合」があると思うことが無明(まよい)である。現象をどんなに操ってみたところで、神ならざるものは必ず崩壊するのである。現象は「心の影」に過ぎないのであるから、これを善くするためには、「自分がなんとかしよう」などと努めてみたところで、どうなるようなものでもない。現象とは、天地一切のことである。「自分が」の心では、天地一切に行き届かなくなるのは当然のことなのである。神のみがすべてに行き届くことができるのである。天地一切は神の中にあるからである。

 

「自分が」の心を捨てて、天地一切の本源であり根源である、すべてのすべてであるところの「神」に、一切を委ねればよいのである。神にすべてを委ねたとき、神さながらの世界が現れるのである。それを称して「万事好都合」というのである。なぜなら、万事は「神」であり、神は「好都合」以外のなにものでもないからである。

 

――と、魂の奥底から響いてくるのである。

 

 さて、『完成の燈台の点灯者の神示』に、「疑わずに吾が光を受けよ」というコトバがある。

 

 実相世界は「今」此処に在り、神の無尽蔵の祝福は「今」ここに天降っているのである。「疑わずに吾が光を受けよ」とは、幼子のごとく、その光を素直に信じて悦ぶことなのである。

 

 新約聖書には、「我また聖なる都、新しきエルサレムの、夫のために飾りたる花嫁のごとくそなえして、神の許をいで、天より降るを見たり」(黙示録)というコトバが綴られている。

 

 新しきエルサレムとは、『真理の吟唱』に説かれた「久遠実成の浄土」(実相世界)のことである。それは、肉眼の目で見ることはできなくても、今ここに在る(天降っている)のである。それを神想観を通して観ずることが「唯神実相」の信仰であり、その無尽蔵の祝福を、素直に「ハイ!」と受けて悦ぶことが、「疑わずに吾が光を受けよ」ということなのである。

 

 つまり無限智、無限愛、無限生命なる神の光は、今ここに「無条件」に降り注ぎ給うているのであるから、私たちも無条件に「はい!」と幼子のごとく悦び感謝することで、神の光を受けることができるのである。

 

 わが家にとって、「森に行く」ということは、この「門関」を通過することにほかならない。つまり「森への公案」とは、何があっても「実相を無条件に悦ぶ公案」でもあるのだ。あとは天地の万物が解決し給うのである。

 

  久都間 繁

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