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2010年7月

2010年7月 5日 (月)

最良、最善、最高のもの

  数日前のこと、「実相世界には、最善と、最良と、最高のもの以外にはないのだ」ということが、祈っているときに、すとんと魂の底に落ちてきた。

 

 信仰生活の中で、私たちは「神の御心のままに」とか、「神様のお導きによって」と、コトバで表現することがあるが、神の御心、即ち実相(真実在の)世界には、「最善、最良、最高のもの」のみが満ち充ちているのであり、それが現れることが、「御心」であり、「神のお導き」なのである。

 

 つまり「神への全托」とは、この「最良、最善、最高」なる真実在の世界に、一切を委ねる、ということである。

 

 真に全托したならば、その御心(真実在の世界)が、現象界においては最良、最高、最善のものとなって現れるのである。

 

 聖書には、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイによる福音書6.33)という、イエスの言葉が紹介されているが、この一節は、先に述べた「最良、最高、最善」のもの(つまり実相)についての消息を述べているのである。

 

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」というコトバは、実相世界では、既に一切が成就しているから、先ずその事実(真実)に心の眼を向けなさい、ということなのである。

 

「願い」は、既に実相世界に成就していればこそ、私たちの切なる「願い」となって出てくるのである。だから、もし、あなたが深い「願い」を心に宿しているならば、それは、神の御心が地上(現象世界)に湧出しようと萌(きざ)しているのであるから、それを妨げてはならないのである。

 

 私たちの内なる「願い」が、正しいインスピレーションによるものならば、それは「神の御心」と一致しているのである。つまり、本当の「願い」は、神(実相世界)から発しているのであり、その「願い」を生きることが、私たちがこの世に生まれた「使命」を果たすことでもあるのだ。

 

 そのような「願い」に対して私たちは、現在の不完全な姿や、不如意な状態を見て、「自分にはそんな資格はない」とか、「自分(または彼)にはそんな能力はない」とか、「私は経済的に貧しいから無理だ!」などと、出来ない理由を並べて、現象に捉われて、「神の御心」の実現を無視したり、あきらめたりしてはならないのである。

 

 御心は、既に天に成就していればこそ、後から私たちの「願い」となって出て来るのである。だから、私たちは、既に成就せる実相を祈りの中で深く観じ、その成就している荘厳なる姿をよろこび、感謝し、祝福し、褒め称えていればよいのである。

 

 それが、キリストが説いた、「これらのものはみな加えて与えられる」という、聖なる果実をもたらす“秘訣”なのである。

 

 

  久都間 繁

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