初講話をする友へ
生長の家の講話の要諦は、「自性円満(そのままで完全なこと)」を説くことに尽きるのではないかと私は思っています。
「自性円満」とは、生命のそのままの相(すがた)のことです。
それは、これから祈ってから成就するものでもなく、幸せな結婚をしてから成就するものでもなく、豊かな繁栄を実現してから成就するものでもなく、さらに云えば、生長の家にふれてから成就するものでもありません。
「自性円満」とは、そのままで完全円満な、人間の生命の実相(ほんとうのすがた)のことであり、それは「天地初発(あめつちのはじめ)の時」から成就しているのです。
はじめから「自性円満」なるものが来たり、はじめから「自性円満」なるものが出合い、はじめから「自性円満」なるものが生き、はじめから「自性円満」なるものが逝く――
来たと見え、出合ったと見え、生きたと見え、逝ったと見えるもの、これら一切は「大光明」なる生命の荘厳なるいとなみです。
はじめから「自性円満」なるもののみが、今も、そして久遠に在り通し、生き通しているのです。
それは無尽蔵の祝福と、無量の光明と、無辺際の喜びが、大光明を放ちつつ光臨を転ずる生命の実相(ほんとうのすがた)にほかなりません。
この実相を解き明かすのが、生長の家の講師のお役目です。
これ(生命の実相)をお伝えできれば現象を超えた救いが、随所に成就するのです。
だから体験談を交えて語るとすれば、体験そのもののありがたさを語るのであれば、それはご利益信心であり、かつて吉田國太郎講師が、「それは饅頭をもらったありがたさだ」と云われたレベルに堕ちることになります。
しかし、体験や経験や功徳といった現象とは「無関係」に、「生命はそのままで自性円満である」ということをお伝えすることができれば、それは生長の家のみ教えを語る講話となることでしょう。
初講話の「初」とは、天地初発の「初」のことです。
つまり、初講話とは、天地初発の講話ということです。
初発とは、久遠の「今」から鳴り出でた光りのことであり、講話は神が成し給うのです。
だから初めて講話する講師も、講話歴50年のベテラン講師も関係ありません。
初講話の鳴り響くところ、そこが生長の家の真理が語られる“場”となるのです。
久都間 繁
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