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2010年9月 6日 (月)

遊馬正・画伯の絵「“8”のピーク」

『イエロー・ラプソディ』から音楽が聴こえてきたことについて、遊馬画伯にお話ししたことがあった。

 

 すると画伯は、

 

 

 そういう見方をしてくださって、本当に嬉しいですね。でも、あの作品は、その後すっかりダメにしてしまいましたよ。
 絵というのは、制作して4ぐらいのピークの段階で、いったん完成します。
 『イエロー・ラプソディ』は、そのピークのときに「生光展」に出品させていただきましたが、あれから手を加えちゃってね。
 しかし絵というものは、5、6の段階を経て、それから7、そして8つぐらいの段階になって、ようやく本当のピークだな。
 それが“本ものの絵”だね!

 

 

 そんなことをお話しくださった。

 

 私は思わず、「先生、あの絵を誰にも売っちゃあダメですよ。私が買いますから!」とお話しすると、
 最初、びっくりしたお顔をされていたが、

 

 

 だめだめ、絵というものは、そんなうまいぐあいに(計算通りに)は描けないね。
 そんなこと考えたら、何も出来なく(描けなく)なってしまうよ!

 

 

 と、手を軽く左右に振って、笑いながら語っておられた。

 

 その後、この作品を、ご自宅のアトリエで拝見させていただいたことがある。現在は、どの段階なのかは知るよしもないのだが、同作品がさらに円熟したラプソディを奏ではじめるのは、きっと「8つの段階」のピークを迎えてからのことなのだろう。

 

 

 

 さて、そこで不思議に思うことは、なぜ作品の最終的なピークが「10」ではなく、「8」の段階なのか、ということである。

 

 これはあくまでも推測の域を出ないが、それは、作品をどこまで描き込んだとしても、現象世界の作品は、完成(10)に至ることはない、ということではないだろうか。

 

 生命が現象の形を超えて、久遠に生き通しているように、生命を表現しようとする芸術が完成形として固定されることは、永遠に不可能である、ということなのかもしれない。 

 

 それは「永遠の未完成」の内に、久遠なる生命が映し出される、ということではないだろうか。

 

 ピークを越える度に、数多の色が塗り重ねられるのとは裏腹に、そこでは、作品に映し出されようとしている真象を覆う一つひとつの色彩が、ゆっくりと剥落していく。

 

 気が付けば、森の木々、湖畔の風景、行く雲、あらゆる素材が、いつのまにか宗教画の根元的なモチーフへと変貌を遂げ、私たちの裡に秘められた世界を透明に映し始める。

 

 遊馬画伯の絵を拝見していると、そんなとりとめもない省察へと駆られるのである。

 

 

 

  久都間 繁

 

 

 

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コメント

ありがとうございます。遊馬正・画伯の絵について拝読させていただいていましたら、涙があふれて、あふれてとまりません・・・。それは『永遠の未完成」の内に、久遠なる生命が映し出される、ということではないだろうか・・・。『久遠なる生命が映し出される」先生のこのお言葉も心しみます。ありがとうございます。私も描く事が好きだ!!と、思い出し、歳を重ねてから美大の授業を受けました。絵を描いている時はただ嬉しい!!描いているものの命を表わしたい、描いた後は満足感で一杯で、時間が経つと又、違った目で見ている神の子がいます\(^o^)/ありがとうございます。

投稿: 上久保慧奈美 | 2010年9月11日 (土) 11時51分

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