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2010年11月

2010年11月 2日 (火)

邸前の槙(まき)の木

 今から40年ほど前、私の実家の県道に面した邸前に、一本の槙(まき)の木が生えていた。

 

 子供のころは、今で言う“ツリーハウス”のようなものを作り、きょうだいと遊んでいた。

 

 中学に入学してからは、受験や部活などに追われ、木の存在などまったく忘れていた。やがて高校を受験し、家から遠く離れた高校に進学した。

 

 夏か冬の休暇の折に帰省してみると、その木は跡形もなく消えていた。

 

 当時、建設会社を経営していた父に、そのことを訊ねると、従業員の人たちが木の近くでセメントなどを洗ったことが原因で、強いアルカリ性に負けて枯死したらしい、とのことだった。

 

 私はそのとき、今まで木の下でセメントを洗うことなど何度もあったのに、枯れたとは不思議なことだ。木はきっと、私が居なくなった寂しさに枯れたのかもしれない、と勝手に思ったものである。

 

 とりとめもない話である。

 

 が、あれから40年近くの歳月を経ても、未だに木に登ったときの幹の感触、樹皮の匂い、葉の手触り、樹上からの風景など、昨日のことのように脳裏に思い浮かべることができる。

 

 邸前の槙の木は、その固有の時空をもって生まれ、生長し、そして枯死した。私も、私固有の時空を持って生まれ、そして生長し、やがて現象的な寿命を終えるときがやってくる。

 

 固有の時空と、固有の時空とが重なるとき、それは即ち「生命(いのち)」と「生命」とが、ふれあうときなのである。

 

「一期一会」とは、人と人との出会いのみならず、森羅万象とも出会うのである。

 

生長の家の『甘露の法雨』というお経に、次のコトバがある。

 

 

「生命は時間の尺度のうちにあらず、老朽の尺度のうちにあらず、却(かえ)って時間は生命の掌中にあり」

 

「空間は却(かえ)って生命の造りたる『認識の形式』にすぎず
生命は主にして空間は従なり」
        (聖経『甘露の法雨』「実在」より)

 

 

 時間は「生命」の掌中にあり、同時に「生命」は、空間の造り主であると、ここには表現されている。

 

 つまり「生命(いのち)」は、その「生命」固有の時間・空間を持つのである。

 

「生命」は時間・空間を生み出す主体者なるが故に、「生命」が心に描いた通りに、現象世界は展開するのである。これを仏教では、三界唯心所現という。

 

 私の「生命(いのち)」は私固有の時空を持ち、あなたの「生命」は、あなた固有の時空を持つ。その、固有の時空を持つが故に、私たちは「人生の主人公」となることができるのである。

 

 時間・空間は、私たちと無関係に展開しているのではない。それは近代合理主義が生みだした最大の誤謬であり、無明(まよい)であるともいえよう。

 

 邸前の槙の木には、彼固有の時間・空間があり、事務所の窓から見える八重桜には、その八重桜固有の時間・空間があり、あなたの家の近くにある桜や楓やドングリの樹には、その桜、その楓、そのドングリの樹、それぞれ固有の時空がある。

 

 私には私固有の時空が、あなたには、あなた固有の時空がある。

 

 そのごとく、天地の全てのものの「生命」を拝み、そこに固有の時空を観ることが、即ち「天地一切のものに感謝する」ということである。

 

 生物多様性を尊重する根拠は、生物(生命)の一つひとつが、固有の時間・空間(つまり宇宙)を持つ「生命」であるところにあるのだ。

 

  久都間 繁
 

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