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2011年8月

2011年8月31日 (水)

嫉妬の炎を消すために

 先日、49歳の主婦の方から、ご主人の浮気についてのご相談のメールをいただきました。

 

 2年ほど前、風俗に行ったご主人を許すことができず、以来この方は夫婦としての関係を拒否し続けてきました。

 

 つい最近、あることからご主人の浮気が発覚し、ご主人を責め立てたところ、彼は家庭や会社での不調和の苦しみに耐えかねて、風俗出身の女性とホテルで密会していたことを告白、奥様の前で懺悔して生まれ変わることを誓ったそうです。

 

 しかし彼女は、夫に騙され、裏切られ続けていた悔しさと、肉体的にはとても敵わない親子ほども年の違う相手の女性(23歳)への激しい嫉妬から、いけないとは知りつつも、その後も毎日毎日ご主人を責め続け、自分でもどうしていいのか分からなくなってしまったそうです。

 

 そして、「どうか助けて下さい。苦しくて苦しくてたまりません」とメールが結ばれていましたので、あらぬ方向へエスカレートしないことを祈りつつ、取りいそぎ次のような返信を送りました。

 

 情報が限られた上での私からの一般的な回答となりましたが、なにかの参考になるかもしれませんので返信を公開します。

 

 

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【回 答】

 

 

 合掌、ありがとうございます。

 

 頂いたメールの内容を拝見しました。

 

 相手の女性に対する嫉妬から、身を焼くような苦しみに苛(さいな)まれているとのこと。

 

 また、信じていたご主人に裏切られた悲しみも、いかばかりのことかと思います。

 

 しかし、過ぎ去った「過去」をいつまでも握っていたのでは、そこから永遠に解放されず、いつまでも地獄の苦しみが消えることはありません。

 

 

 あなた様にとって何よりも大切なことは、「過去」を心から放ってしまうことです。

 

 ご主人も、自分の過ちで犯した罪を、いつまでも責め立てられていたのでは、やがて自暴自棄になって、その苦しさに耐えきれず、再び同じ過ちの渦へと巻き込まれないとも限らないのです。

 

 メールによると、ご主人は「今日からスパッと生まれ変わることを約束」されたとのこと。

 

 このご主人の精一杯の、潔い懺悔と、尊い決意とを、あなた様は大切に受け入れてあげなければいけません。

 

 そのためには、ご主人が自暴自棄にならないように、今後は決して、ご主人の「心の傷」に触れないことが大切です。

 

 

 また、生長の家の教えを学んでいるあなた様は、すでにご存じのことと思いますが、ご主人も、奥様以外の女性に走らざるをえなかったほどの耐え難い寂しさ、その後の地獄のような葛藤があったことを、理不尽なことに見えるかもしれませんが、よく汲み取ってあげなければなりません。

 

 

 しかし、すでに全てのことは過ぎ去り、過去へと永遠に消え去ったのです。

 

 ですから、済んだことの中に生活するのは、今日限り止めにしましょう!

 

 あとは神さまに全托することこそが、あなた様を、現在の嫉妬の苦しみから救い、夫婦が調和した本来の姿に帰るための唯一の道なのです。

 

 

 そのための具体的なアドバイスを以下に掲げますので、できるところから、実践していただければと思います。

 

 

①ご主人を「責める心」や、彼女への「嫉妬心」が生じたときには、迷わずに『甘露の法雨』を誦げ続けてください。

 

(法華経の中には、「甘露の法雨を注いで、煩悩の炎を滅除し」(普門品)と説かれています。「甘露の法雨」は観世音菩薩の大慈悲のコトバであり、これを繰り返し読誦することで、燃えさかる嫉妬の炎が消え、苦しみから解放されます)

 

 

②それでも、どうしようもなく苦しいときには、今までの「生活のモード」を、「信仰のモード」に一変させる必要があります。そのために最適なのは、生長の家の練成会を受けることです。

 

(例えば宇治別格本山の一般練成会や、地元の教区練成会などに参加して、ベテランの本部講師に何もかも打ち明けて、指導に素直に従うことをお勧めします)

 

 

③朝晩、一定の時間を決めて、祈り(神想観)、『甘露の法雨』読誦(先祖供養)を実修してください。

 

(神想観は、谷口雅春先生著の『詳説 神想観』や『新編 聖光録』などを参照しながら「四無量心を観ずる神想観」「如意宝珠観」などをお勧めしますが、もっとあなたの気持ちに合ったものでもかまいません。祈りの最後には、繰り返しますが、全てのことを神さまに全托することが大切です)

 

 

④ご主人の善いところを見つけて毎日「日時計日記」を書き続けましょう。

 

(生長の家を学んでいるあなた様ならご存じのように、教えに照らしてみれば、ご主人はあなた様を救うために現れた観世音菩薩です。未だかつて罪を犯したことのない円満完全なる「神の子の実相」を拝みきりましょう)

 

 

⑤ご主人と「あいさつ」をしっかり交わしましょう。

 

(「ありがとうございます」「おはようございます」「いってらっしゃい」「おかえりなさい」「おやすみなさい」これらの基本的なあいさつをしっかり交わすことで、心が着実に通い始めますので、忘れないで実行してください。心の通うところに本来の大調和した世界が顕れるのです)

 

 

 以上が、頂いたメールの文面を拝見した上での、あなた様へのアドバイスです。

 

 今は辛く苦しい時期ですが、信仰生活を続けていれば、すべてが好転する時が必ず訪れます。

 

 もし、私に追加のご質問がある場合には、実名と住所などを公表してください。手紙にて返信をお送りさせていただきます。

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2011年8月15日 (月)

「知らずに犯す罪」と原発事故(2)

 8月12日に本欄で発表した〈「知らずに犯す罪」と原発事故〉について、都内在住の主婦の方から率直なコメントをいただきました。

 

 生長の家に関心を持つ方の多くが、この問題について共通の疑問や悩みを感じていらっしゃるかもしれません。

 

 返信が長文になりましたので公開します。ご意見ご感想などありましたらお寄せください。

 

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 mama さま。貴重なご意見をありがとうございました。

 

 小学生のお子さんがいらっしゃるとのこと、水や食べ物への放射能の影響がご心配のことと思います。

 

 さて――
 
>> 生長の家の先輩方に放射能の懸念をお話しすると、
>> 認めたものが顕われるから気にしないでいい、人間は
>> 物質ではなく霊だから、何物にも冒されない、この困難
>> な時期に生れる赤ん坊は使命があって生れて来てい
>> るのだから絶対に守られる、という話になり、でも とか、
>> だけど とか言わず素直に受け取ればよいと言われます。

 

 
 先輩の方のご意見とのことですが、これは一見もっともらしい指導のようにみえますが、生長の家の教えがよく分かっていらっしゃらない“独り善がり”な考え方、と言わざるをえません。

 

 原発事故も含め、さまざまな「現象」に、「実相」の智慧をもって対処するためには、正確な情報と、深い愛と、祈り(神想観)を通して得た正しい判断とが必要です。

 

 もし原発事故や放射能汚染について「気にしない」ような、そんないい加減な信仰姿勢でいたならば、正確な情報を得ることも、時宜を得た最善の対処をすることも、まして正しい指導などはできません。

 

 そのような信仰姿勢が、「知らずに犯す罪」を、何度も繰り返してしまうのです。

 

「人間は物質ではなく霊である」という教えは、そんな曖昧(あいまい)で不徹底な生き方をすることではありません。

 

 内なる「神の子の実相」(善一元)を正しくはっきりと直視すること、そして「神の子・仏の子」として、自由自在に「現象」に対処して、真・善・美を生活の場に現すこと、それが霊的実在としての人間の生活なのです。

 

 

 さて、『真理の吟唱』の「向上の力を得る祈り」の中で、谷口雅春先生は次のように説かれています。

 

 

「真の愛は一体感である。彼のよろこびを、わがよろこびとし、彼の悲しみ苦しみを、わが悲しみ苦しみとして、彼より、そしてすべての人より、その悲しみ苦しみを除いて楽を与えんとする願いである。否、単なる願いではなく、実践である。真の愛は、中うつろにして大きく鳴るラッパのようであってはならないのである。少しでも多く、他の人々の悲しみ苦しみを除いて、悦び楽しみを与えるための実践を為すことである」          (同書「向上の力を得る祈り」より)

 

 

 つまり原発事故や放射能汚染などの「現象」について「知る」ということは、「彼の悲しみ苦しみを、わが悲しみ苦しみと」することなのです。なればこそ、正しく「知る」ことで「すべての人より、その悲しみ苦しみを除いて楽を与えるための実践」が可能となるのです。

 

 それが仏の四無量心を生きることであり、神の無限の愛を生きる生長の家の信仰生活です。

 

 

>> 現象の事実を知ることと、
>> 善一元の世界の安心を得ることとが、
>> 私にとっては相反するように思え、
>> 悩ましい日々です。

 

  
 繰り返しますが、信仰生活とは、私たちの「実相」である智慧・愛・生命を、この現象世界で“生きる”ことであり、それが神の無限の愛・仏の四無量心の展開としての私たちの運動です。

 

 だから「現象」のさまざまな事柄について正しい情報を得て、祈り(神想観)を通して人・事・処において自在に最善の対処をすることが信仰者としての生活なのです。

 

 

「善一元の世界」というのは単なる観念ではありません。また、「善一元」は私たちと離れたところに存在しているのではありません。私たちの実相こそが「善一元」そのものなのです。

 

 それが「人間は神の子である」ということの真意です。

 

 神の子・仏の子である実相を悦び、智慧・愛・生命を生きる私たちの生活こそが、人類光明化運動であり国際平和信仰運動なのです。

 

 

 

 

 

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2011年8月12日 (金)

「知らずに犯す罪」と原発事故(1)

 仏教の説話(『那先比丘経』)の中に――

 

「知って犯した罪と、知らずに犯した罪と、いったいどちらの方が重いか」という話がある。

 

 この質問に対して、同経の中では、

 

「知らずに犯した罪の方が重い」
との答えが述べられている。

 

 3月11日の東北大震災は、東北地方に甚大な被害をもたらしたが、ことに福島県で発生した東京電力の福島第一原発における事故は、8月に入っても未だに終息の目処も立たず、放射能と放射性物質を放出し続けているのが実状のようだ。

 

 原子力発電所は、現在日本に54基ほど存在し、その一つひとつの原発が、福島での事故と同じ災禍をもたらす危険性を秘めているということを、私たちは偏見のない目で見つめ直し、あらためて「原発とは何か」ということについて考えてみる必要があるのではないだろうか。

 

 多くの日本人、ことに都市部に在住する日本人にとって、電力の「原発」への依存ということや、その危険性や地域住民の苦悩については、今般の福島における事故を通してその甚大な被害が明らかになるまでは、「知らずにいたこと」なのではないだろうか。

 

 これは私自身への自省を込めて書いているのであるが、原発について「知らない」ということ、知らないがゆえに立場を鮮明にしていなかったということ、実はこれは「知らずに」原発を推進し、「知らずに罪を犯していた」のではないか、そんなことを強く感じている。

 

 繰り返すが「知らずに犯す罪」は、かえって知って犯す罪よりも重いという。

 

 それは、「焼け火箸」と知って握れば、大けがをすることはないが、「焼け火箸」と知らずして握った場合は、“大やけど”を負ってしまうからである。

 

 ましてや「死の灰」と言われている放射性廃棄物や放射性物質の場合には、今生きている世代のみが“大やけど”を負うだけならまだしも、子々孫々に亘って、いったいこれからどのような災禍をもたらす可能性や危険性があるのか――

 

 日本中にある「原子力発電所」から不可抗的に排出される「高レベル放射性廃棄物」が、現在どのような処理をされ(あるいは未処理のまま)、どのようなペースで地球上に蓄積され、それが人類の健康にどのような影響を与え、さらに現在進行中の福島原発事故の現状や、大量の被爆を覚悟の上で事故の処理に当たっている人々のことや、この放射能汚染にどのように対処すればいいのかを知るためにも、私たちは“原発”や放射性物質の与える影響について、より深く、より正確な情報を知る必要があると思われるのである。

 

――私は元来、保守的な人間である。しかし福島での原発事故を機に、イデオロギーによる偏見を超えて、未来世代の子や孫たちのためにも、目をそらすことなくこれらの現状をしっかりと「学ぶ」ことの義務を感じている。

 

 それが、今日の日本において「知らずに」罪を犯さないための確かな生き方であり、今般の大震災と原発事故を真摯に受けとめ、人と自然とが調和した世界を拓くための、大きな転機にしなければならないと考えている。

 

 

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2011年8月 6日 (土)

生きるって何でしょう

 10代前半の女子の方から、「生きるとはなにか」「人間とはなにか」という、存在についての哲学的なご質問をいただきました。

 

 人生のある時期、このような根元的な問題に逢着する人もいれば、このようなややこしいことなどほとんど考えることもなく生きている人もいます。

 

 このようなことへの関心や疑問が生まれてくるということは、すでにその方の内にある神性・仏性が目覚めはじめている証(あかし)でもあります。 

 

 こころの目を澄ませて観れば、私たち自身を含め、周りには不思議なことが充ちています。10代、20代のころには、この深淵が巨大な不安と映ることもあれば、光明輝くよろこびの泉として捉えられることもあります。

 

 大切なことは、この巨大な不安ともみえる不思議な宇宙から逃げないこと、目を背けないこと、いいかげんなところで妥協しないこと。そして答えを探求し続けること――

 

 では、次に質問と回答を紹介させていただきます。

 

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【質問】

 

 こんにちは。

 

 生長の家の皆さんに、前から聴きたかったことがあります。

 

「人間はなぜ生きるのか」ということです。

 

 私にはよく分かりません。

 

 以前、『日時計24』に載せていただいた「マイ・ポエム」に、私は「生きるのは、幸せを味わうためだ」と書きました。

 

 でも正直私は、そう思ってはいません。

 

 幸せだから何なんですか。私は、人間が存在しているというこことが、根っから不思議です。

 

 生きるって何でしょう。

 

 人間て何でしょう。

 

 誰でもいいので、私に教えてください。

 

 

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【回答】

 

 質問のおハガキを読ませていただきました。

 

「人間はなぜ生きるのか」ということ、十代前半でこのような哲学的な質問をされるあなた様の魂(たましい)のことを、「大きなご使命をもって生まれた方なのだな」と、そんなことを思いながら回答を書かせていただきます。

 

 あなたがおハガキでご質問されているように、「生きる」とは、幸せを味わうだけの、それだけの存在ではないかもしれません。

 

 また、私たちが「存在している」ということは、それは「この世」がある、ということとともに、本当に不思議なことなのです。

 

 あなたのおハガキを見ていて、ふとその昔、私が教えを受けた先生から聴いた次のエピソードを思い出しました。

 

 

 これは何年も前の、関西での話です。

 

 ある日、生長の家の先生のところに、上品なご婦人が人生相談に来られたそうです。

 

 そのご婦人が語るのには、彼女はとても熱心に神さまを信仰し、ある宗教の教会に度々お参りして、たくさんのお金を奉納して、神さまに自分の幸せや一家の幸せを祈り、多くの人を教会へとお誘いしていたので、自分でも「わたしほど熱心に神さまを信仰している人はいない!」と、自信をもって思っていたそうです。

 

 ところが、ご主人の経営していた会社が行き詰まり、とうとうお金の遣り繰りができなくなり、にっちもさっちも行かなくなってしまいました。

 

 ある親しい方が見るに見かねて、生長の家のことを紹介されたそうです。このご婦人は藁(わら)にもすがる思いで、紹介された講師のところに相談に来られたのでした。

 

 そのご婦人は、生長の家の講師に、これまでご自分の信じてきた信仰のこと、そしてとうとう行き詰まってどうにもならなくなったことなど、思いのたけをお話になると、

 

「――この世には、神も仏もいないのでしょうか」

 

と訴えられたそうです。

 

 すると講師は、間髪を入れず、

 

「あなた、この世にはねえ、神も仏もいませんよ」

 

と答えられたそうです。

 

 そのご婦人は、

 

「やっぱりそうでしたか。もう神も仏もあるもんか、私はだまされていたッー!」

 

と、失望のあまり、地団駄(じだんだ)をふんでくやしがりました。

 

 それを聞いていた講師は、静かに次のように言われました。

 

「あなたねえ、この世の中に神はないけど、神さまの中に、この世はあるんだよ――」

 

 ご婦人は、そのコトバに触れたとき、まるで天地が開けるような思いがしたそうです。

 

 彼女は帰宅するとすぐに、思いつく限りの人に連絡して頭を深く下げて資金繰り(お金)の手配をし、打つべき手を全て打ち、夜眠る前には、この世の一切を抱き育んでいる神さまに、すべてを打ち任せて眠る、このような日々を送っていました。

 

 ――そして数カ月、気が付いてみれば、つぶれそうだった会社が持ち直し、いつしか借金は消え、彼女の家はふたたび富み栄えていたそうです。

 

 

 さて、前置きが長くなりましたが、人間が存在している、あるいは、この世が存在している、ということの背後には、それを生みだした宇宙大生命ともいうべき「神」が存在している、というのが生長の家をはじめ、仏教やキリスト教など世界にある伝統的な宗教の説く世界です。

 

 だからあなた様は、お父さんお母さんのお子さんであると同時に、この大生命(実在)の子であり、すべての人間は一人の例外もなく大生命の子どもなのです。

 

 この宇宙的な大生命のことを、私たちは神と呼び、仏とも呼んでいます。

 

 つまり、人間はみな神の子であり、仏の子なのです。

 

 人間が神の子であるということは、あなた様の内には、無尽蔵の「知恵」と「愛」と「生命」そして無限の喜びとが、充ち満ちているのです。

 

 ですから「生きる」ということは、大生命があなた様を生きている。神さまがあなた様を生きているのであって、わたしたちは「生きる」というよりも、大生命(神さま)に「生かされている」のです。

 

 コトバがちょっと難しかったかもしれませんが、とても深い意味をもったご質問をいただいたので、このような、まるで大人にお話しするような文章になってしまいました。

 

 分からないことがあれば、いつでも、どんなことでも、遠慮なくご質問ください。

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