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2011年10月

2011年10月15日 (土)

自然エネルギーを求めて(4)――あこがれの薪ストーブ

 目の前にあった夢が潰(つい)えたとき、人はそれに代わる新たな夢を追い始める。

 

 

 そして、その夢をいよいよ具体化するとき、私たちは「経済的な価値」を優先するか、それとも「経済以外の価値」を優先するかという問題に逢着する。

 

 

 ここで言う「経済以外の価値」とは、「倫理的」価値ということが大きなウエイトを占めるのであるが、ときには「美的」価値が、さらに地縁・血縁というゲマインシャフト的な「ご縁」が決め手となったりする。

 

 

 以前から、強いあこがれを抱いていた「自然エネルギー」を燃料とした暖房器具のひとつに、リビングで薪を燃やして暖をとる「薪ストーブ」がある。

 

 

「薪を燃やす」というと、森林保全に逆行して環境を悪化させるようなイメージを抱く方もいるかもしれない――

 

 

 しかし薪の燃焼によって排出されるCO2は、樹木の成長過程で吸収する量とほぼ等量であり、一方的にCO2と熱とを排出する石油・石炭などの「化石燃料エネルギー」とは対照的な、「循環型エネルギー」(Circulation Type Energy)なのである。

 

 

 つまり「薪ストーブ」を利用すれば、CO2の増減に影響を与えないカーボンニュートラルな生活が実現できるのだ。

 

 

 かつて私は、実はバーモント・キャスティング社(アメリカ)の薪ストーブで「アンコール エヴァーバーン」という製品の導入を検討した時期があった。

 

 

 しかし、薪ストーブの生活を詳しく研究していくうちに、思い掛けない発見が幾つもあったので、感心を寄せている方のためにその一端を紹介しようと思う。

 

 

「薪ストーブ」といえば、燃料は薪である。

 

 

 調査したところでは、薪ストーブは1束400円~500円ほどの薪を、だいたい1日で3束ほど使うそうだ。

 

 

 すると1カ月90束で約4万円ほどになる。
 ということは、一冬の暖房費だけで約20万円ほどの出費を覚悟する必要があるのだ。

 

 

 もちろん、自由に薪を採取できる山林があれば、費用は発生しない。

 

 

 また、森林組合などを通して原木に近い状態で購入すれば、薪も安価に入手できる。

 

 

 しかし山林から直接採取する場合も、森林組合から購入する場合も、薪作りに使うチェーンソーや斧(オノ)などの道具を調達し、薪を割るための体力と、そのための時間を確保しなければならない。

 

 

 薪を割る元気があれば問題ないが、時間が思うようにつくれないときや体調がすぐれないときは、ちょっと辛そうである。

 

 

 さらに重要なことは、「薪を置くスペース」を確保しなければならないのだ。

 

 

 一冬で450束の薪を燃料として使うとなると、わが家の場合は、畑のスペースか自動車のガレージをあきらめるかしなければ、冬を越せそうにないボリュームである。

 

 

 しかも、「薪は2年以上乾燥させる」のが理想というから、その倍となる900束(!)ほどの薪を置くスペースが必要となるのだ!

 

 

 これでは、わが家は経費(薪代)とスペース(土地)の双方から、畑も自動車も手放さなければ憧れの「薪ストーブ」ライフは実現しないかもしれない。

 

 

 さらに薪ストーブは、シーズンはじめに煙突掃除とストーブのメンテを毎年欠かさずしなければならない。

 

 

 高い屋根に登るリスクと煤(スス)だらけになるのを覚悟の上で、自分でメンテをすれば材料費だけだが、外注すれば3~4万円ほどかかる。

 

 

 つまり、薪ストーブを導入するためには――

 

 

①「お金」にゆとりがあるか「山林」を持っていること。

 

②家の近くに薪を置くための「土地」があること。

 

③薪を割るための「時間」と「体力」があること。

 

④「掃除」や「メンテ」が苦にならないこと。

 

⑤煙突のけむりによってご近所迷惑にならない場所に家があること。

 

 

 ざっとみても、これだけの条件を満たす必要があるのだ。

 

 

 満たしている条件が、「体力」と「掃除」だけではお話にならないことが、次第にハッキリしてきたのである(^^;

 

 

 わが家でこれを導入するためには、「定年後の道楽」としてなら家族も納得することだろう。

 

 

 しかし、学齢期の子供を4人も抱えて、自宅のローンの支払いに追われている現在では、夢のような話だったのかもしれない―― (^^;

 

 

 しかしながら、上記の条件を満たし、さらに薪ストーブに興味を抱いている方がいらっしゃれば、ぜひチャレンジすることをお勧めしたい。

 

 

 薪ストーブと同じく、木質燃料を燃焼させて暖をとり、しかも「森」と「地域の産業」と「家庭」とを結ぶ、循環型で地産地消エネルギーの本命とも思われる「ペレットストーブ」についても、折をみて紹介させていただこうと思う。

 

 

 

 

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2011年10月13日 (木)

宇宙は神さまの創造か?

 30代の主婦の方から「宇宙は神さまの創造か?」ということについてご質問をいただきました。

 

 質問と回答のメールでの遣り取りを公開させていただきます。

 

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質 問

 

 

 神様をもっと知りたくて、感じたくて、

 

「そうだ、神様は宇宙を造ったんだ!」

 

と思いつき、最近、宇宙に関する雑誌を読んでいます。

 

「神様は、こんなに広くて、すごい法則をおつくりになったんだなぁ」と、少しは神様のことがわかりそうだと思ってうれしい気持ちになったのですが、

 

「あれっ、宇宙って実相世界じゃないんじゃない?」

 

という疑問がわいてきました。

 

 神様は、現象世界はおつくりになっていないんですよね?

 

 宇宙は、現象世界?

 

 じゃあ、この星のたくさんきらめく大宇宙は神様の創造ではないのでしょうか?

 

 教えてください。

 

 

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【回 答】

 

 

 お手紙を拝見して、あなた様が発見した宇宙への新鮮な驚きが伝わってきました。

 

 私も星座をながめ、ときおり子供たちと天体望遠鏡で星を観察したりしますので、星々の美しさに魅せられるお気持ちはよく分かります。

 

 さて、ご質問は、「宇宙って実相世界じゃないんじゃない?」ということへの、新たな驚きから発したものですね。

 

 これも、すでにあなた様がお気づきになっているように、私たちが肉眼を通して見ている宇宙は、実相世界ではなく、現象宇宙の相(すがた)を、私たちは観察しているのです。

 

 私たちの五感、六感から入ってくる情報は、すべて「現象」を感受しているにすぎません。

 

 鎌倉時代の夢窓国師という高僧は、次のようなコトバを残しています。

 

 

「月の衆水に影を映すがごとし」

 

 

 この場合の「月」とは、「実相」の象徴です。

 

「衆水」とは、世の中つまり現象世界を水に喩えたものです。

 

 実相世界は欠けることなく完全円満に大調和して輝いていても、私たちの五感、六感は、現象に映し出された世界しか感受することができないために、ときに歪(ゆが)んで見えたり、欠けて見えたり、全く見えなかったりします。

 

 

 ですから、夜空に輝く星々のきらめきも、神さまの創られた実相宇宙の「映し(現象)」ではありますが、「実相(実在)そのもの」ではありません。

 

 

 私たちが星の輝きを見て、そこに美しさを感ずるのは、現象世界に映し出された神(の幾分か)を観じているのです。

 

 

 神想観の折に、「吾れ今五感の世界を去って、実相の世界に入る」と称えるのは、五感・六感から入ってくる現象を見る肉眼の目を閉じて、さらにその奥にある「実相」(大生命)そのものを、いのちで観じるためなのです。

 

 

 実相は、そのままで完全円満であり、時間・空間を生み出すところの大生命であり、私たちはその宇宙大生命と一つのいのちなのです。

 

 

 この宇宙大生命のことを、古来から日本の神道では天照大御神と云い、仏教では宇宙を遍く照らす光りであるとの意味をこめて尽十方無碍光如来とも、大日如来とも、阿弥陀如来とも称しています。

 

 

 その実相大生命が私たちと「一つのいのち」であることを観ずる行事が「神想観」です。

 

 

 生長の家で言う「人間は神の子、仏の子」との意味は、そのような中味があるのです。

 

 以上が、メールを拝見した上での私からの回答です。

 

 

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【礼 状】(2011年10月9日付)

 

 

 質問へ返信をいただき、とてもうれしいです。

 

「宇宙は実相世界じゃない」というお答えに、やっぱりそうかー、と少し残念でした。

 

『甘露の法雨』にも、宇宙という言葉が出てきたり、宇宙飛行士なども「神を感じた」いう意味のコメントをしていたので、もしかしたら、という期待がありました。

 

 私は神様をとても愛しているのですが、つかみどころがないような気がして、少しでも神様を知る糸口みないなものがほしかったのです。

 

 やっぱり、神想観しかないんですね。少しずつ精進します。

 

 わが家には小学生以下の子供が6人いて、なかなかパソコンに向かえず、お礼が遅くなりました。

 

 ありがとうございました。

 

 

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 【回答 追伸】

 

 

 

 「宇宙が実相世界」なのではなく、実相世界はあなたの内に在るのです。

 

 

 それが「存在」、つまり“本当に在るもの”の神秘です。

 

 

 その「存在」(実在)こそがあなたであり、神であり、実相世界なのです。

 

 

 その「存在」こそが、「実相」なのです。

 

 

「存在」していないもののことを、「現象」と云い、「非実在」といい、仏教では「無」と呼んでいます。

 

 

 ですから「あなた」こそが、宇宙を生みだしたところの「存在」であり、それが「人間・神の子」ということの荘厳な事実であり、あなたと宇宙とは初めから一つであり、あなたは宇宙が生まれる前から在り続けているのです。

 

 この「存在」のことを「般若心経」では、不生不滅、不垢不淨、不増不減、と表現しています。

 

 

 その「存在」そのものの実相に帰るのが神想観であり、「中心帰一」ということです。

 

 

 つまり「中心帰一」とは、非実在なる「現象」に帰一することではなく、真の自分自身(存在)=「神(実相)」に帰ることなのです。

 

 

 ですから「神さまを知る糸口」は――

 

 

 『汝らの内』にのみ神の国はあるなり。(『甘露の法雨』人間)

 

 

 このコトバに素直に従い、内に心の眼を向けることから開けてきます。

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2011年10月 8日 (土)

自然エネルギーを求めて(3)――生活の身近にあった「火」のこと

 わが家での冬場と夏場に使用しているエネルギーのことを、読者にはちょっと煩わしいかもしれないが、少しだけ紹介させていただこうと思う。

 

 

 まず冬場の暖房は、以前は電気コタツと石油ストーブを使用していたが、8年前に4人目の子供が生まれてからは、危険を避けるために石油ストーブを廃止し、リビングにホット・カーペット敷いて、その上にコタツのやぐらを載せている。このほか寝室では氷点下に達するような晩のみオイルヒーターを使っている。

 

 

 一方、夏場の冷房は、網戸からの通風によるそよ風と団扇(うちわ)と、ときおりの扇風機――そして17年ほど前に買ったエアコンは、来客のときだけ使用。

 

 

 こんな具合に「電気」の使用を控える、いわゆる“省エネ”の生活を続けてきた。

 

 

 それでも、今年(平成23年)の家族7人分の電気使用量は、真冬の1月で411kWh(9,485円)、真夏の8月で223kWh(5,723円)と、どうしても冬場の寒い時期をしのぐためのエネルギー消費が跳ね上がっていた。

 

 

 しかし、このようなささやかな努力とは裏腹に、“省エネ”に努める生活は、家族にしてみれば決して快適なものではなかったかもしれない。春と秋を除いてガマン大会のような生活を遵守しているさまは、実状を知った人から見れば修道院や禅寺のようにも映ったかもしれない(^^;

 

 

 今年の3.11以降、原発の矛盾や問題点に気づいて以来、あらためて足下を見直しているうちに、ある肝心なことが見えてきたので、そのことについて紹介させていただこうと思う。

 

 

 それは、原発や化石燃料や石油化学製品の消費こそが、「廃熱」と「廃棄(CO2も含む)」という2つの点で、地球環境全体のバランスを崩す「問題の原因」なのであるから、それをできるだけ「買わない」し「使わない」ことはこれまで通りである。

 

 

 さらにもう一歩踏み込んで出来ることは、私たちが利用する資源やエネルギーを、原発や化石資源に由来しない循環型の「自然エネルギー」へと転換し、それを積極的に「買い」そして「使う」ようにすれば、その分だけ異常な「廃熱」と「廃棄」が消え、結果的に問題の原因が消え、さらに循環型社会が実現するという、あたりまえのことに気が付いたのである。

 

 

「自然エネルギー」とは、非枯渇性のエネルギー、つまり太陽と大地と水がある限り枯れることのないエネルギーのことで、太陽光をはじめ、水力、風力、地熱、波力、バイオマスなど、再生可能エネルギーといわれているものの総称である。

 

 

 たとえばバイオマスについてであるが、これは“生物由来の資源”という意味で、平たく言えば薪(まき)などの木質燃料のことである。(バイオエタノールについては別途考察予定)

 

 

 私が小学生だった40数年年前は、田舎に住んでいれは薪で竈(かまど)や風呂を焚き、学校でも冬になると薪ストーブの煙突を先生と生徒たちとで教室に組み立て、だるまストーブに薪を燃やして暖をとったものである。

 

 

 ストーブや風呂釜の中で燃える、あの埋み火の荘厳な炎の輝きは、薪のはぜる音やにおいとともに、今でも時を超えて蘇ってくるのであるが、よく知られているように薪などの木質燃料から出た灰は、カリウム、カルシウム、マグネシウムなどを多く含むため、野菜などの生育にとって大切な肥料となり、決してゴミとはならないのだ。

 

 

 思えば、家庭生活の中から、薪などのバイオマスによる「火」が消えたのは、人類の歴史からみればほんの最近のことにすぎないのではないだろうか。

 

 

 それまで人々は、薪による火で料理をし、火で暖をとり、火で風呂を沸かし、洋の東西を問わず家族で囲炉裏や暖炉、そして火鉢や掘り炬燵やペチカ(^^; などを囲んで親密なる時を過ごしてきたのである。

 

 

 現代文明が失った大切なものの一つは、この、かつて家の中にあった「火」を中心にしたいとなみであろう。

 

 

 思えば、昭和30年代から40年代にかけて、各家庭には急速に家電製品が普及し、バイオマスによる「火」は、電気釜や電気温水器やガスコンロ、ガス湯沸かし器などによって、その本来の居場所を失っていった。

 

 

 この新しい消費文明の潮流に拍車を掛けたのが、「火」に替わって屋内の中心部に登場したテレビという未体験のメディアだった。

 

 

 テレビは、波状的なコマーシャリズムによって、知らないうちに人々の心を徹底的に「モノ」や消費へと向かわせた。生活の中から「火」や森や自然との親密な関係を見失った私たちは、人間至上主義・経済至上主義へとひた走りに突き進んで来てしまったのではないだろうか――

 

 

 それが、今日における環境問題のひとつの重要な要因となったと、私は考えている。その背後に見え隠れしているのは、何万年も人間生活の身近にあった、森(自然)との繋がりを持った「火」の喪失である。

 

 

 これは最近、警察庁が公開しているデータを見て驚いたことであるが、日本における平成21年度の自殺者の総数が、なんと3万2000人に達していたという。それは、東日本大震災による犠牲者の数よりも、さらに1万人以上も上回る人々が、毎年毎年3万人も、尊いいのちを自ら絶っているのである。

 

 

 何千年という列島上の人類のいとなみの中で、果たしてこのような悲劇的な文明が、かつて発生したことがあっただろうか。

 

 

 身近な森から得た「火」の背後に感じ取っていた、「自然」との豊かな繋がり。これを見失った代償は、自殺者や、うつ病などの心の病の増加のみならず、さまざまな方面に影響を与えていることだろう。

 

 

 わが家での自然エネルギー利用の第一歩は、家の中にこの、かつて人間生活の身近にあったパイオマスによる「火」を、もう一度呼び戻すことなのかもしれない――

 

 

 そんな想いが、脳裏に燃える懐かしい炎とともに、心を温かく照らしていた。

 

 

 

 

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2011年10月 3日 (月)

インターネットと受験勉強

 中学3年生になるお子さんの勉学について、相談のメールを頂きました。

 

 その子は、これまで学校の成績もよく、地域のトップ校を目指して受験塾にも通っていたそうです。

 

 ところが、生来のんびりしたご性格のため、今年の夏ごろから塾から出される宿題等が間に合わなくなり、とうとう塾を休むようになったそうです。

 

 インターネットやメールにも、かなりの時間を費やしているようなご様子も、相談内容から伝わってきました。

 

「これからどのように子供に接したら良いのか」との質問をいただきましたので、同様の悩みを抱えていらっしゃる方の参考にもなればと思い、私の回答を公開させていただきます。

 

 

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 この度は中学3年になるお子様のことで、相談をお寄せくださりありがとうございました。

 

 わが家にも高3と中3の受験生の長女・次女がおり、さらにその下に小6と小3の男の子がいますので、お子様のことを心配されるあなた様のお気持ちはよく理解できます。

 

 

 ことに学生である子供がインターネットや、ケイタイメールなどに費やす時間と、勉強時間とのバランスは、人生経験の少ない子供たちにとっては、親が何らかのルールを設けない限りは自分でコントロールできなくなる場合があるかと思います。

 

 

 かといってルールで雁字搦めに縛りすぎても逆効果となりますので、親としては悩ましいところでもあります。

 

 

 大切なことは、本人も充分に納得できるようなルールを、親子でよく話し合った上で設けることが必要ではないかと思います。

 

 

 参考までにわが家での事例を紹介しますと――

 

 小学生の2人の男の子については、ゲームは毎日1時間というルールを設け、これを破ったら一週間使用禁止。

 

 さらに掟(おきて)破りをしたらゲーム機没収(^^;

 

 このルールは、小学生の子供たちと充分に話し合って、何度も改訂をしながら実施していました。

 

 ちなみに、現在は「ゲーム機没収中」で、本人たちも事情をよく納得して、今では手持ちぶさたなのでピアノや勉強に励んでいます。

 

 

 また、高3と中3の娘のインターネットとケイタイメールの利用については、これまで特別なルールを設けていませんでしたが、受験生である中3の娘の成績がちょっと落ちてきたのを懸念して、

 

「二学期の成績が◎◎以下に落ちたらケイタイ没収」あるいは「夜の◎◎時以降はケータイ使用禁止」という選択できるプランを夫婦で話し合い、これを娘に提案してみました。

 

 この背後には、明らかに携帯メールに費やす時間と、勉強時間とのバランスの問題があったからです。

 

 すると娘からは、

 

「――じゃあ、二学期の成績が◎◎以上になったら何かご褒美があるのか!」

 

などと逆提案されてしまいましたが、今ではひとつ踏ん切りがついたように、一所懸命に勉強しています。

 

 

 このように、子供たちがインターネットやゲーム機等から解放されて、勉強をしやすくするためのルール作りを、まずは夫婦でよく話し合って、その上で子供たちに提案してみるのもよろしいのではないでしょうか。

 

 

 さて、生長の家では「子供は神さまからの預かりもの」であり、「神の子」として拝み育てることが、教育の基本だと教えられています。

 

「自分の子供だ」と思ったら、なんとか親の思うとおりに育てよう、型どおりに育てようという計らい心が起こり、子供はその“思い”に縛られることを嫌って反抗します。また、逆に反抗しない場合には、自発的な能動性をなくした見た目だけの“良い子”となり、持って生まれた個性を見失ってしまいます。

 

 

 しかし、子供は「自分のもの」でも、「親のもの」でも、まして「教師のもの」などではなく、神さまの子供であり、大いなるご使命を持って生まれてきているのですから、その素晴らしい実相を拝み、どこまでも信じて、限りない可能性を伸ばしてあげなければなりません。

 

 

 そのためにも、子供たちが勉強しやすくなるようなインターネット等のルールを、子供たちの判断で自発的に決めさせてあげるような提案を、ご両親が知恵を絞って考えてあげることも大切かとと思います。

 

 

 あとは、学習塾の方針と、子供の個性との相性なども、よく配慮してあげる必要があるかもしれません。

 

 たとえばお子様の個性に合った学習塾に替えることで、無理なプレッシャーから解放されて、伸び伸びと楽しく勉強できるようになる場合もあります。

 

 

 以上が、頂いたメールを拝見した上でのアドバイスです。

 

 分からないことなどありましたら、なんなりとご質問ください。

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2011年10月 1日 (土)

自然エネルギーを求めて(2)――今できることを足下から

「これだけは実現したい」と切望しても、与えられた条件、資金、時期など、さまざまな阻害要因が重なり、それがたとえどんなに善いことで、どれほど望ましいことであったとしても、「実現」にまで至らないことは、人生では度々経験させられるところである。

 

 

 

 今般、福島で発生した東電原発事故による放射能漏れは、周辺地域のみならず、日本全体に深刻な影響を与えていることが次第に明らかになりつつある。

 

 そのこと一つとってみても、いかに原発というシステムが、人類の生活に不適合なものであり、「放射能」と「生命」とが相容れないものであるかが分かるのである。

 

 原子炉から放出されるセシウムの半減期30年。プルトニウムの半減期2万4千年という途方もないものを、いったい誰が責任を持って管理するというのだろう――。

 

 

 未来世代のためにも、一刻も早く、原発由来のエネルギーから、太陽光、風力、波力、地熱などの「自然エネルギー」を利用した電力へと、社会的な規模での転換を図りたいものである。そこで一念発起して、わが家で試みた太陽光発電プロジェクトだったが、その顛末は前回のブログをご参照いただきたい。

 

 

「時節到来」という言葉があるように、この世には、ものごとが人・事・処を得て自然に成就する「時節」というものがある。しかしそれは、ただ手をこまねいているだけで巡ってくるものではないのかもしれない。

 

 社会全体を、循環型のシステムへと移行させて行くためには、先ず先駆者となる人々が、未来へのより善きビジョンを描き、それを先ず足下からこつこつと実践することを通して、人々の心の扉を叩き続けることから、すべては始まるのである。

 

 

 地域の産業として、自然エネルギーを利用したシステムが社会的な規模で実現するのは、まだまだ時間を要するかもしれないが、個人の生活においては、今できることを一歩でも二歩でも踏み込んで、自然エネルギーを利用した暮らしを実現できるはずである。

 

 

――それにしても3.11における原発事故と、それが環境に与えた影響はあまりにも深刻である。

 

 

 スーパーに山積みされた野菜、鮮魚売り場の魚を見ても、私たちは放射能が与えた影響を勘案せざるをえず、地産地消という、これまで“安全”とされてきた前提がすっかり崩れてしまった感がある。

 

 

 ことに成長期にある子供のいるご家庭では、放射性物質による内部被爆への懸念は、学校給食のことも含め深刻な問題である。

 

 

 原発が与えた影響を考えれば考えるほど、環境保全への願いは募るばかりだ。

 

 

 このような「願い」から、わが家で3.11以降に取り組んだささやかな試みを、本欄では何回かに分けて紹介させていただこうと考えている。

 

 

 

 

【お奨めの書籍】

 

 

 

 

 

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