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2011年10月 8日 (土)

自然エネルギーを求めて(3)――生活の身近にあった「火」のこと

 わが家での冬場と夏場に使用しているエネルギーのことを、読者にはちょっと煩わしいかもしれないが、少しだけ紹介させていただこうと思う。

 

 

 まず冬場の暖房は、以前は電気コタツと石油ストーブを使用していたが、8年前に4人目の子供が生まれてからは、危険を避けるために石油ストーブを廃止し、リビングにホット・カーペット敷いて、その上にコタツのやぐらを載せている。このほか寝室では氷点下に達するような晩のみオイルヒーターを使っている。

 

 

 一方、夏場の冷房は、網戸からの通風によるそよ風と団扇(うちわ)と、ときおりの扇風機――そして17年ほど前に買ったエアコンは、来客のときだけ使用。

 

 

 こんな具合に「電気」の使用を控える、いわゆる“省エネ”の生活を続けてきた。

 

 

 それでも、今年(平成23年)の家族7人分の電気使用量は、真冬の1月で411kWh(9,485円)、真夏の8月で223kWh(5,723円)と、どうしても冬場の寒い時期をしのぐためのエネルギー消費が跳ね上がっていた。

 

 

 しかし、このようなささやかな努力とは裏腹に、“省エネ”に努める生活は、家族にしてみれば決して快適なものではなかったかもしれない。春と秋を除いてガマン大会のような生活を遵守しているさまは、実状を知った人から見れば修道院や禅寺のようにも映ったかもしれない(^^;

 

 

 今年の3.11以降、原発の矛盾や問題点に気づいて以来、あらためて足下を見直しているうちに、ある肝心なことが見えてきたので、そのことについて紹介させていただこうと思う。

 

 

 それは、原発や化石燃料や石油化学製品の消費こそが、「廃熱」と「廃棄(CO2も含む)」という2つの点で、地球環境全体のバランスを崩す「問題の原因」なのであるから、それをできるだけ「買わない」し「使わない」ことはこれまで通りである。

 

 

 さらにもう一歩踏み込んで出来ることは、私たちが利用する資源やエネルギーを、原発や化石資源に由来しない循環型の「自然エネルギー」へと転換し、それを積極的に「買い」そして「使う」ようにすれば、その分だけ異常な「廃熱」と「廃棄」が消え、結果的に問題の原因が消え、さらに循環型社会が実現するという、あたりまえのことに気が付いたのである。

 

 

「自然エネルギー」とは、非枯渇性のエネルギー、つまり太陽と大地と水がある限り枯れることのないエネルギーのことで、太陽光をはじめ、水力、風力、地熱、波力、バイオマスなど、再生可能エネルギーといわれているものの総称である。

 

 

 たとえばバイオマスについてであるが、これは“生物由来の資源”という意味で、平たく言えば薪(まき)などの木質燃料のことである。(バイオエタノールについては別途考察予定)

 

 

 私が小学生だった40数年年前は、田舎に住んでいれは薪で竈(かまど)や風呂を焚き、学校でも冬になると薪ストーブの煙突を先生と生徒たちとで教室に組み立て、だるまストーブに薪を燃やして暖をとったものである。

 

 

 ストーブや風呂釜の中で燃える、あの埋み火の荘厳な炎の輝きは、薪のはぜる音やにおいとともに、今でも時を超えて蘇ってくるのであるが、よく知られているように薪などの木質燃料から出た灰は、カリウム、カルシウム、マグネシウムなどを多く含むため、野菜などの生育にとって大切な肥料となり、決してゴミとはならないのだ。

 

 

 思えば、家庭生活の中から、薪などのバイオマスによる「火」が消えたのは、人類の歴史からみればほんの最近のことにすぎないのではないだろうか。

 

 

 それまで人々は、薪による火で料理をし、火で暖をとり、火で風呂を沸かし、洋の東西を問わず家族で囲炉裏や暖炉、そして火鉢や掘り炬燵やペチカ(^^; などを囲んで親密なる時を過ごしてきたのである。

 

 

 現代文明が失った大切なものの一つは、この、かつて家の中にあった「火」を中心にしたいとなみであろう。

 

 

 思えば、昭和30年代から40年代にかけて、各家庭には急速に家電製品が普及し、バイオマスによる「火」は、電気釜や電気温水器やガスコンロ、ガス湯沸かし器などによって、その本来の居場所を失っていった。

 

 

 この新しい消費文明の潮流に拍車を掛けたのが、「火」に替わって屋内の中心部に登場したテレビという未体験のメディアだった。

 

 

 テレビは、波状的なコマーシャリズムによって、知らないうちに人々の心を徹底的に「モノ」や消費へと向かわせた。生活の中から「火」や森や自然との親密な関係を見失った私たちは、人間至上主義・経済至上主義へとひた走りに突き進んで来てしまったのではないだろうか――

 

 

 それが、今日における環境問題のひとつの重要な要因となったと、私は考えている。その背後に見え隠れしているのは、何万年も人間生活の身近にあった、森(自然)との繋がりを持った「火」の喪失である。

 

 

 これは最近、警察庁が公開しているデータを見て驚いたことであるが、日本における平成21年度の自殺者の総数が、なんと3万2000人に達していたという。それは、東日本大震災による犠牲者の数よりも、さらに1万人以上も上回る人々が、毎年毎年3万人も、尊いいのちを自ら絶っているのである。

 

 

 何千年という列島上の人類のいとなみの中で、果たしてこのような悲劇的な文明が、かつて発生したことがあっただろうか。

 

 

 身近な森から得た「火」の背後に感じ取っていた、「自然」との豊かな繋がり。これを見失った代償は、自殺者や、うつ病などの心の病の増加のみならず、さまざまな方面に影響を与えていることだろう。

 

 

 わが家での自然エネルギー利用の第一歩は、家の中にこの、かつて人間生活の身近にあったパイオマスによる「火」を、もう一度呼び戻すことなのかもしれない――

 

 

 そんな想いが、脳裏に燃える懐かしい炎とともに、心を温かく照らしていた。

 

 

 

 

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