「心、仏、衆生、三無差別の心」について
「真象の有無」について質問をいただきました。
ここを、うやむやにせず、「実相」と「現象」の違いが明確になるにしたがって、信仰が実生活を活かすものとなり、その人自身を救うとともに、人に対してもその人本来の生き方へと導くことができるようになります。
「現象無し!」の大刀を自在に振るいうるか否かは、ここの理解と、祈りの深さとに懸かっています。
以下に質問と、回答を公開させていただきます。
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【質 問】
合掌ありがとうございます。
「真象の有無」についてお聴きしたいです。
『生命の實相』20巻のP133後ろから3行目の、
「一心転じて、佛ともなり衆生ともなり極楽ともなり地獄ともなり」
のところで、佛と現れた心や姿、極楽と現れた状態が真象だと考えましたが、その後で「現象一切無し」と書かれてあり、真象も無いのかと思いましたら、P136の1行目に、
「実相とは神である。あるものはただ神のみである。神の心と、神の心の顕現のみである」
と書かれていますが、神の心の顕現は真象ではないのですか??
一方では真象が否定され一方では肯定されているように思い、よく分かりません。どの様に解釈したら、宜しいでしょうか??m(__)m
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【回 答】
合掌、ありがとうございます。
「実相と現象」について先ず頭で理論的に理解し、その後の観行(神想観)によって体感体得するためには、ここはとても重要な箇所でもありますので、私の回答を参考に、あらためて本文を熟読していただければと思います。
さて、まず「一心転じて、佛ともなり衆生ともなり極楽ともなり地獄ともなり」という「心」とは、「心、仏、衆生、三無差別の心」つまり本来無い「現象の心」のことです。
またP136の1行目にある、「実相とは神である。あるものはただ神のみである。神の心と、神の心の顕現のみである」と説かれた「神の心の顕現」とは、「実相世界」のことです。
「真象」とは、この実相が、現象世界に展開した相(すがた)です。ですから、実相さながらに調和した真・善・美が現れるのです。しかしながら、どんなに素晴らしい「真象」が現れていようとも、それは現象にすぎないのです。
現象は、時間の経過とともに必ず消滅します。
これを仏教では諸行無常と説き、浄土真宗では「朝ニハ紅顔アリテ夕ニハ白骨トナレル身ナリ」(蓮如上人「白骨の御文」)というコトバで、このことを表現しています。
あなたが疑問を持たれた、「実相とは神である。あるものはただ神のみである。神の心と、神の心の顕現のみである」という、ここで説かれた「神の心の顕現」とは、繰り返しますが、実相世界のことです。現象世界に展開した「真象」は、その実相が如実に顕現した状態です。
「現象は無い」ということは、「神と神の創り給うた世界のみが実在である」ということです。それが、神想観において観ずる世界です。
「現象は無い」のですから、私たちと、私たちを取り巻く世界は、はじめから、そのままで円満完全であり、これから完全になるのではないのです。
その円満完全なる世界を日々観じて悦ぶだけで、「三界唯心」の心の法則によって現象世界に「真象」が現れる、つまり実相世界の大調和した真・善・美が、あなたの実生活にあふれてくる、それが生長の家の信仰生活です。
以上が「唯神実相」の教えからみた「現象顕現の法則」であり、幸福な生活を実現する秘訣なのです。
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コメント
合掌ありがとうございます。
先生、ご回答をありがとうございますm(__)mm(__)m 先生の文章をよく読んでみます。 ありがとうございますm(__)mm(__)m
投稿: 光 | 2012年1月24日 (火) 07時33分