祈りと愛行について(子供が授からず悩んでいる方へ ②)
皆さんは、不思議な偶然が重なったときや、善いアイディアが次々と湧きでてきたとき、ふと、神さまから導かれていることを感じたことがありませんでしょうか。
このような不可視の世界からの導きは、その場や渦中にいて感じることもあれば、ずっと後になって、長い歳月を経たあとで気付かされることもあります。
ブログも何年か続けていると、このような神秘な導きを感じる機会が何度か訪れるものです。
今回紹介させていただく礼状にも、そのような内容が記されていますが、礼状を書きたくなること、その動機の中に、すでに次に展開する世界の萌芽がめばえているのではないかと思われます。
今回紹介させていただく手紙は、2年ほど前にこのブログに掲載した「子供が授からずに悩んでいる方へ」で遣り取りした方から頂いたものです。
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【礼 状】 (2014年3月13日)
久都間先生に子宝に恵まれたい件で、相談に乗っていただいてから2年がたちました。ここのブログで掲載されている内容をもう一度読み返して、4月からの自分のあり方を考えようと、久しぶりにのぞかせていただきました。
すると、私の相談内容と同じ悩みを抱えた方のお話(流産して悩んでいる方へ)が寄せられていて、とても驚き、見るべくして神様が導いて下さったのかと思いました。
ご相談に乗っていただいてから、丁度一年後に私は仕事を退職しました。やはり現在の仕事を続けていては、ゆったりと家庭モードになることは難しいと考えたからです。しかし、教育現場から離れることへの寂しさもあり、退職してから2ヶ月後に、半日の仕事ではありますが、再び子ども関係の仕事に就き、現在に至ります。仕事量が断然減り、生長の家のご本を読んだり、聖経をあげたりするなどの余裕もできました。
しかし、まだまだ悟りの浅い自分ですので、子宝に恵まれたいという焦りがなかなか治まらず、その焦りが主人にも少し移ってしまったようにも思います。「最も良い時期に神様が授けてくださる」と分かっていても、それは、いつ??と思ってしまう情けない状態です(^-^;
この4月から再び中学校へ戻ろうかと、ある試験を受けましたが、不採用通知が来ました。面接の時には自分なりに手ごたえがあったので、「あれ・・?」と思っていたのですが、もう一通の手紙で、その理由が分かったように思います。
その手紙は、一年前に別れたある生徒からの手紙でした。私が一生懸命指導していた部活動の部員の子です。自分の高校受験合格の報告をしてくれる手紙でした。そして、手紙の内容には、「先生が退職された理由が知りたい」ともありました。子どもを授かるために退職したとき、生徒たちにはどう説明してよいか分からず、「家の事情」とだけ告げていたのです。
今回この手紙と不採用通知が同時に来たのは、神様に「何のために仕事をやめたのか思い出しなさい」と言われているような気がしてなりません。
それでもなお、経済的なことも気になり、別の仕事も探そうか・・・と迷っていたときに、ここのブログに再び出会いました。なんだか肩を押されたような気がします。4月からいったん、仕事はきっぱりやめてみようかなと思います。
まだまだ、気持ちが落ち着かないところもありますが、生長の家の勉強をしながら、神の子の自覚を深め、素晴らしい神の子さんを授かるよう頑張って生きたいと思います。
また、不安になった時にはご相談させてください。ここにたどり着けて本当に良かったです。
ありがとうございました。
【返 信】
近況をご報告くださり、ありがとうございます。
かつてあなたが指導していた生徒からの手紙、そして不採用通知が同時に届いたのは、深い摂理に導かれてのこととと思います。
また2年前、ご縁あってあなたから頂いた質問への回答をこのブログに公開しましたが、それを読んだ方から寄せられた質問にふたたび私が答え、それを今度はあなたがご覧になり、「肩を押されたように感じた」というのも、一連の神さまの導きであったのでしょう。
この導きにしたがって、なにかアドバイスできることを綴ってみましょう。
まず思い浮かぶことは「感謝の生活」です。『甘露の法雨』の冒頭に掲載されている「大調和の神示」には、「その感謝の念の中にこそ汝はわが姿を見、わが救いを受けるであろう」と説かれています。
つまり「感謝の生活」こそが、神さまと心の波長の合う、神の子にふさわしい、また神の子さんを迎え入れるのに最適な生活なのです。
それは天地一切の人に、物に、事に、ただ感謝、感謝の日々を送ること。
また『生命の實相』には、いずれの章かは忘れましたが「絶対感謝」というコトバが説かれています。この感謝の意味は、何かを頂いたからありがたい、何かをしてもらったから、ありがたい、といった相対的な感謝も大切ですが、そのような条件に対する感謝ではありません。
まだ何も与えられていなくても、またはマイナスの状況で、たとえ八方ふさがりの真っ暗闇の中であったとしても、現象の奥にある神(実相)を感じて、その円満完全なる実相の光りを観じ、信じて“無条件”で感謝することです。
これは相対的な感謝ではありませんので、「絶対感謝」あるいは“無条件感謝”とでもいうべき「感謝」であり、この感謝こそが、生長の家の祈りである神想観で観ずることの“中身”であり、信仰の根源的な悦びもここから湧いてきます。
これと合わせて、祈りの助行としての「愛行」を実践することをお勧めします。
「愛行」とは、「“愛”が“行”ずる」と書きますが、その文字が意味するように、あなたの内なる「愛」を、深くゆたかに鳴り響かせることが「愛行」です。この「愛行」は、教師をされていたときに、すでに授業や部活などの指導を通して無意識のうちに実践されていたことと思います。が、今度はこれを初めから〝無償で行う〟ということが、お仕事とはちょっと異なるところです。
その〝無償〟なることのポイントは、神さまの御心を第一にする、ということです。つまりその行為が自分や家計にとって損か得か、収入があるか無いか、といった利害や損得勘定によってものごとを判断する〝左脳的な働き〟をいったんお休みさせて、すべてを円満完全なる大生命にゆだねてみる、ということです。
円満完全なるもの(神)に全てを委ねることを“全托”といいますが、全托することによって円満完全なるものが現象世界に顕れて、全ての問題は解決し、あらゆる願いは叶えられる、それが生長の家で説くところの「神癒」(meta physical healing)なのです。
そのためには先ず、ご自宅で祈り(神想観)を実修して、神さまに全托して、あなたの内から、誰かが心から喜んでくれそうなことがヒラメイテきたら、毎日それを素直に一つひとつ実践に移してみましょう。どんな小さなささやかなことでもいいから、やってみてください。
神想観という祈りが、神なる宇宙大生命との一体感を深める〝静的な工夫〟であるとすれば、“無償の愛”を行ずる「愛行」は、これを体感して実践する〝動的な工夫〟に当たります。〝工夫〟とは、神や仏の御心に専心専念こころを合わせることです。この「祈り」(神想観)と「愛行」を通して、神さまの世界にある無尽蔵の知恵、愛、生命をこの世に具体的に実現させることになります。
そのためには、生長の家の教えを、多くの先達や仲間とともに学ぶヤングミセスの集いや、母親教室に参加して、ともに真理への道をあゆむ仲間から、善いアドバイスをいただきながら精進されることをお勧めします。
1人で研鑽する時間も大切ですが、道を求める仲間たちとともに歩むことで、独りの修行では得ることのできなかった、思いがけないほど多くの発見や内的な気づきがあるものです。
分からないことがあれば、遠慮なくご相談ください。
(2014年3月19日)
生長の家本部講師
久都間 繁
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コメント
お返事ありがとうございます。
仕事をやめても、ボランティアなどで、愛行を実践できたらよいなぁと思っています。また、自宅の近くにもたくさん母親教室を開かれているお家がありますので、参加させてもらおうと思います。
何より、なかなか毎日は実践できていない神想観を頑張っていかなければと思います。すでに神の子さんを授かった私たち夫婦の姿を思い描きながら、感謝の毎日を送って生きたいと思います。
時々覗かせていただきますので、今後ともよろしくお願いいたします。
投稿: TM | 2014年4月 2日 (水) 15時37分
コメントをありがとう。
神想観、ただの習慣の問題なので、最初の間は意識的に努めてがんばってください。
わが家では家内が母親教室を、かれこれ20年ほど開いています。
参加者は、親や祖父母が生長の家を信仰されていた方、幼稚園の父母会やPTAで知り合った方など様々でした。
母親教室は、参加しているだけで生長の家の家庭の雰囲気に触れることができるので、いろいろなヒントがひらめくことでしょう。
投稿: 久都間 繁 | 2014年4月 4日 (金) 14時50分