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2015年1月

2015年1月31日 (土)

薪ストーブのある暮らし

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 八ヶ岳で暮らしはじめて二度目の冬を迎え、わが家でも“薪作り”に励んでいる。

「わが家でも」というのは、生長の家本部の移転とともに一緒にこの地に越してきた大泉の寮に住む皆さんも、同様の作業に励んでいるからである。

 この時期に割る薪は、春に使うものも含まれるが、ほとんどは来冬に備えてのものだ。

 昨年は一人で黙々とこの作業をやることが多かったが、最近は二人の息子たちも手伝うようになった。

 わが家での作業は、まず私が薪の原木(クヌギやナラ)をチェーンソーを使って約40センチ単位の長さで玉切りにする。

 それを長男(中3)と次男(小6)が斧で割り、この薪を、私が井桁に組んで塔のように積み上げるという手順で、現在は庭の空きスペースに10~20ほどこの塔らしきものが建立している。

 これらは1年ほど乾燥させて、順番に薪棚やガレージに収めていく予定だ。

 思えば、東京(都会)に住んでいたころは小・中学生の男子が、本気で全力を出して“家の手伝い”をする機会など、ほとんどなかったのである。

 しかし八ヶ岳の田舎では、雪かきに始まり、畑、薪割り、そんな機会は頻繁にある。だから小・中学生が生活の中で“男子”ならではの役割を果たすことができて、家庭での彼らなりのポジションが少し見えてくるようだ。そのおかげか、食卓の空気が清々しい。

 八ヶ岳に越して1年半。周期的に訪れる氷点下10度の朝や、信じ難いほどの積雪の渦中で、わが家に暖をもたらす薪ストーブの“ありがたさ”はひとしおで、最近は料理の煮炊きにも欠かせなくなっている。

 薪割り、薪運び、薪の焚きつけ、料理という一連の作業を通して、「人」と「炎」との原初的な繋がりを、親も子も身をもって体感することができるのは、他にどんなに不便なことがあったとしても、子供たちにとって掛け替えのない経験となるであろう。


 振り上げた一斧のもと、いっきに薪を割る爽快感は、弓道で的を射貫くことや、「居合」で巻藁を一刀両断することにも似ていて、冬ごもりのストレス解消にもなる。

  わが家ではスポーツと化した「薪割り」だが、寒風の中ひたすらチェーンソーで原木を“玉切り”にしてわが家の“男子”たちが割りやすいように積み上げ、さらに彼らが割った薪を、次は黙々と積み重ねて塔作りに励むだけの私は、まるで“賽の河原”にいるような気分になるときがある(^^;

 しかし幸福とは妙なもので、落ち着いてよくよく周りを見渡せば「炊煙春の霞の如く棚引(たなび)」く常楽の世界が、いつの間にかここに実現しているようだ――

 雪どけの春、花咲き鳥歌う夏、山脈が赤く染まる秋、降雪と薪ストーブの冬
 ―― 

 大自然に寄り添い、それがもたらす恵みや艱難と豊かに戯れること、そのことが実は、人間の人間たるものを熟成させて、私たちの内に密(ひそ)む真価値を練成して、来たる春への準備をしているのではないか。降る雪を見つめながらそんな“想い”がめぐっている。


2015年1月31日

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2015年1月26日 (月)

季節が変わるように

 八ヶ岳の“森の中のオフィス”では、毎月「自然を伸ばす活動」という作業が行われている。

 この作業はどのようなものか、というと、オフィスで働く生長の家の職員が、この地での“自然との共生”を実践するもので、森林整備、キノコ狩り、畑作り、雪かきなど、人が自然と係わる活動全般のことである。

 1月の中旬、雪の降る屋外でこの作業が実施され、当日は鹿たちが食い荒らした畑の整備と、農事倉庫前の“氷割り”が行われた。

 私は後者に加わったが、これは溶けた雪が地面に何層にも凍り付いて固まったものを、大きなアイスピックや鉄バールで砕いて除去するという、標高1350メートルの八ヶ岳山麓ならではの作業なのだ。

 小さなスケートリンクのような氷の盤面が広がり、シンプルに氷結した箇所は、かんたんに氷を割って剥(は)がすことができるものの、複雑に入り組んで氷結した箇所はどんなに力を込めて叩いても盤踞して剥がれない。アイスピックを両腕で持ち、腕と腰に力を入れて、リズミカルに繰り返し砕き続けるほかないのである。


 この作業を2時間ほど黙々と続けているとき、東京にいた十数年間に、生長の家講師として相談を受けたさまざまな「個人指導」のことを思い出していた。

  その人の抱えている心の問題が、単純な氷結の仕方をしていれば解決もまた容易である。しかし、溶けては凍結し、その上に積雪したものがまた溶けて、さらに車輪に踏まれて凍結してを繰り返したような心の問題は、複雑に入り組んで凍った氷の盤面と同じで一筋縄では剥がれないし時間もかかる。

 
 しかし、春が来ればすべてが氷解するのだ。

 単純な凍結はもちろん、どんなに複雑に入り組んだ凍結であろうとも、春が来れば跡形もなく消え去るのである。

 心に春を招き入れるためには、まず彼自身が、過去のすべてを打ち捨てることである。

 何もかもを放下することである。

 そして完全円満なる神にすべてを委(ゆだ)ねるのである。これが春の“誘い水”となり、やがて彼の魂の底から、永遠に消えない光が差してくる。

 その光は、どんなに拗(こじ)れた心の凍結をも、春の陽のように溶かさずにはおかないのである。

 イエス・キリストは、燈(ともしび)を升(ます)の下に置いてはいけない、燭台の上に掲げよ、と説いた。

 燈を升の下に隠すことによって心の凍結が生ずるのである。

 それがたとえ、どんなに小さな燈のように見えたとしても、それを燭台に掲げるとき、あなたの内なる光は春の陽のように輝き出して辺りの風景を“薫風の季節”へと一変させる。

 それが宗教的な救いである。

 これは外からもたらされる“救い”ではない。季節が変わるように、内から春の陽が輝き出すのである。


2015年1月26日

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