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2015年4月15日 (水)

流産して悩んでいる方へ(2)

「流産して悩んでいる方へ」という読者の方との遣り取りを、2013年の秋に当ブログにアップしましたが、過日、これを読まれた方からお礼のコメントをいただきました。

 

近年のインターネットは、FacebookにしてもTwitterにしても、情報がどんどん流れ去って消えてしまうことに大きな違和感を感じていたところに、流れ去らない言葉もあることが分かり、少し安堵した次第です。

さて、コメントをお寄せいただいた方は、これまで5人の子供を授かったものの、この世で会うことが叶わなかったという辛い思いを抱えていました。

彼女との対話が、同様の問題で悩んでいらっしゃる方の参考になるかもしれませんので、この遣り取りをアップさせていただくことにしました。

以下は、数度にわたって頂いたコメントと、私からの返信となります。

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今までに5人子供を授かりましたが、この世では会えませんでした。

どうこの現実と向き合っていけばよいのか悩んでいるときにこちらのHPにたどり着きました。

今もつながっているのかと思うと、心が温かくなりました。ずっとさみしかったのに。。

心温まるお言葉、本当にありがとうございました。


投稿: サブリナ | 2015年4月10日 (金) 22時11分
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コメントをありがとうございました。

たくさんの子供たちと〝神縁〟をいただきましたね。

現象的には分かれているように見えますが、〝いのちの世界〟では、いまだ一度も離れたことなどないのです。

彼らはあなたとともに生き通しています。神さまにおいて〝ひとつ〟のいのちであり、あなたと久遠に愛し合っていることを観じ、祝福し、大いに(無限大に)喜んであげてください。

それこそが「祈り」(命宣り)であり、実相のみを観ずる生長の家の神想観です。

 

投稿: 久都間 繁 | 2015年4月11日 (土) 17時28分
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心に染み入るお返事、本当にどうもありがとうございました。

人数分の激しい辛さが、その分の喜びになれた気がします。。

現在は高齢ということもあり、もうこの世で会えるのは難しいという認識もあるのですが、これはこれでまた受け入れることがとても辛いのです。

これが私の最後の試練かもしれません。
この世でもう会えないとすれば、今世私に何か原因があると受け止めるべきなのでしょうか。

医学的に問題がないとすれば、スピリチアル的にどのような背景があるのかが受け止められられれば、乗り越えられるかも知れない、と思い恐縮ですが、再度コメントをさせて頂きました。

知識の乏しいわたくしが、とても暖かく慰めて頂いたにも関わらず、このような答えの難しいお問い合わせを突然させて頂いてしまうことを、大変申し訳なく感じております。

が、これも何かのご縁と思い思い切って書かせて頂きました。もし差支えなければご感想をお聞かせください。

どうぞ宜しくお願い申し上げます。

 

投稿: サブリナ | 2015年4月13日 (月) 19時59分
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合掌、ありがとうございます。

辛い積年の思いを、打ち明けてくださり、ありがとうございました。

子供たちとこの世で、目に見え、言葉を交わすような形で会えないことは、お辛いことと思います。

しかし、この世で「もう会えない」ということでは、ないのです。

なぜかと言えば、自分が産んだ子だけが、あなたの子供ではないからです。

神縁というのは、血筋によるものだけではありません。

自分の子供や孫であるか否かということとは無関係に、神縁によって出合った方とは、生と死を越えてより深い絆が結ばれるものです。

たとえば、恩師や師匠と呼ばれる人たちとの出会いは、肉親との縁とは別に、師が亡くなった後もより深く結ばれていることを感じるものです。

私の娘は今年大学4年になり、親元から離れて東京で生活していますが、彼女の絵の師匠(イラストレーター)は今年、喜寿を迎える独身女性の方ですが、自分の子や孫でもないのに、肉親のようにして無償で絵の指導をして、おまけに人生の指南までしてくれています。

また、私自身も亡き恩師との繋がりは、昇天後に十年の歳月が過ぎても、肉親とは異なる次元で、より深い結びつきを感じながら今も生きています。

むしろ、継承したものが私を通して生きている、といった印象で、このようなご質問にお答えさせていただくのもその一環なのです。

あなたのご質問にある、「スピリチアル的にどのような背景があるのか」ということについては、あなたが今どのような仕事をされ、どのようなことに取り組んでいらっしゃるかは存じ上げませんが、現世でお子様に恵まれなかったことは、これはあなたが今生で取り組んでいらっしゃる〝ご使命〟とも関係していることのように思われますが、いかがでしょうか。

つまり、あなたが持っているもの、情熱をこめて取り組んできたこと、生きがいにしてきたことが、もしかしたら、後世を担う若い人々に〝無償で〟伝えるご使命があるのかもしれない、ということです。

あなたが無償で与えたことは、彼らの血となり肉となって、それがまた後世へと続いていくのですが、このような深い繋がりは、誰にでも恵まれているようなものではありません。

それなればこその〝神縁〟であり、これに応えるためには〝無償の愛〟をもってしか応えることができないのです。

その理由はよく分かりませんが、神がそれ(愛そのもの)であることに由来しているのだと思います。

十分な情報がないままでのアドバイスとなりますので、行き届いた答えになっていないかもしれませんが、追加の質問があればお知らせください。

 

投稿: 久都間 繁 | 2015年4月14日 (火) 13時22分
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とても考えさせられるお返事、本当にありがとうございました。

5人の子供とは、私が人生を全うした時に会えるのではないか、、とその時を心から楽しみにしていますし、今回言って下さった「命の世界ではまだ一度も離れたことがない」という言葉には、とてもとても励まされました。
感動して泣きました。

今世で私ができる「無償の愛・・・」

今すぐ何かは正直分からないのですが、あの世の子供達に、あまりにも集中し過ぎていたここ数年の愛情(もしかしたら執着なのでしょうか?)を、これからは少しづつ、縁あって出会った方に向けていってみようかな、と思いました。

最も身近な両親や主人にさえも、切なさで精一杯で心に本当に余裕がなく、気遣う気持ちをここ数年忘れてしまっていた気が今してきました。。

この状態ではお母さんに選ばれなくても仕方なかったかもしれません。

神縁で子供達と、生と死を超えて深く繋がっていると分かっただけで、今回心にゆとりが生まれ、ここまで客観的に色々な事にお蔭様で気付く事ができました。

まずは子供の父親であり、神縁によって出会い、沢山辛い思いと我慢をさせてしまった主人に愛を再度向けないといけないです。

そして、6人目の子供とひょっとしてこの世で会えるかは、神縁に委ねる事に致します。

「血筋だけが神縁ではない」というお言葉に、しばらくは不思議な気持ちと、目から鱗のような気持ちと、壮大なスケールの中で人生をすごしていたのか、、、など本当に考えさせられました。

ずっと止まっていた私の時計の針が、漸く動き出した気がします。

また人生の困難にぶつかった時、改めてご連絡させて頂くかもしれません。

私と同じ思いで、とても辛い経験をされた方が、このやりとりを読まれて私と同じように心が軽くなると良いな、と感じています。

今回相談に乗って頂いて、心の底から感謝しております。今回の心温まるお言葉は私の生きる糧となることでしょう。
ありがとうございました。

そして遠く離れたお嬢様も、これからも沢山の良縁に恵まれますように。。

 

投稿: サブリナ | 2015年4月14日 (火) 20時37分
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ご丁寧な返信をありがとうございます。

>> ずっと止まっていた私の時計の針が、漸く動き出した気がします。

よかったですね。

6人目7人目のお子様は〝神縁〟によって必ず授かりますのでご安心ください。

同じ悩みを抱えていらっしゃる方のために、今回の遣り取りを公開させていただくことにします。

 

>> また人生の困難にぶつかった時、改めてご連絡させて頂くかもしれません。

 

どうぞ遠慮なく。

 

投稿: 久都間 繁 | 2015年4月15日 (水) 10時01分

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コメント

合掌、ありがとうございます。
偶然、先生のブログに辿り着きました。
先生のお言葉ひとつひとつに本当に感動しており、元気を頂きました。ご縁に感謝します。

よろしければ、ご指導頂きたいと思いコメントさせて頂きます。

24歳、女性です。

私は人を裁いてしまいます。
昔から人に恐怖心や劣等感があり、家族以外とはありのままの自分でいることができません。
常に相手の反応、評価を気にして、自分の気持ちを無視して相手を優先し、気を遣い、どんなに昔からの仲のいい友人とでも疲れ果ててもうしばらくは誰にも会いたくないかも、、と思ってしまうほどです。

しかし、ありがたいことにこんな私にもたくさんの友人がいてくれるのです。
ですが、その友人たちを心の中で、あの友人といるとなんだか疲れる、だとか、あの人はこういうところで気が利かない、気に入らない、だなんて人を裁いてしまうのです。自分が勝手に気を遣って疲れているだけだということは頭では分かっていても、どうしても人を責めてしまいます。知人に昔、「あなたは誰の悪口でも言うね」と言われたことがあります。本当にその通りなのです。
そして、その友人の素晴らしい面も感じた瞬間にまた裁いてしまった、なんてひどいことを考えたのだろうという罪悪感と自己嫌悪で苦しくなる。というのを永遠に繰り返してしまいます。

神想観後や聖典を拝読した後は、しばらくの間心が軽くなってすべての人の長所ばかりが見えて、ありがたい幸せだ、実相顕現とはこういうことだろうか。と素直に受け取ることができるのですが、1つ引き金のようなことが起こると瞬時に感情が暗くなりどうせ他人なんて。とまた考え込んでしまいます。

本当は、昔から人一倍”友達”というものに憧れが強くて、たくさんの人達と楽しいや好きを共有したり、友達の幸せが自分の幸せだと感じてみたり、純粋に人を愛したいだけなんです。でも、無意識に心の底から嫌な理屈っぽいような感情が出てきて苦しいのです。もう、自分ではどうしたらここから抜け出せるのかがわかりません。
いつか、私も心の底から人を愛せる時がくるのでしょうか?人の幸せを自分の幸せだと感じることが出来る時がくるのでしょうか?ずっと子供の頃から夢に描いている幸せな光景がありありとあるのに、上手く表現できません。

長くお見苦しい内容で申し訳ありません。
もしお時間ありましたら、ご指導よろしくお願いいたします。

投稿: ミツキ | 2016年2月28日 (日) 02時30分

ミツキさま

返信がおそくなり失礼しました。

質問の内容を拝見していると、あなたの中に満ちている「愛」が、内側からあふれ出るのを待っていることが伝わってきます。

「愛」とは、本質的に“無償”のものです。

それは太陽が誰にでも惜しみなく光りを注ぐように、この季節の雨が春の大地を潤すように、あなたの持てるものを周りに与えることによって、あなたの内に満々と充ちている愛の世界が、現実のものとして目の前に展開してくるのです。

しかし私たちの心の中には、これはあなたに限らず誰の心にも、無意識のうちに「利害得失」で価値判断をしたり、「善悪」で人を裁いたりする習慣が残っているものです。

この心は、自分を「孤立した存在」と見て、自分と他人とを“別々の存在”として見ようとする心の習慣で、これを谷口雅宣先生は、「自分は一個の肉体だ」と考える分離感、という言葉で表現しています。

この“心の習慣”を持ち続けていたのでは、「愛」をあらわす機会を失い、その結果として、家族や友人同士が、心から赦し、愛し合い、生かし合う「愛の世界」を現すことから遠離ってしまうことでしょう。

これは、私たちの内に「愛」が無いからではありません。

人間は神の子ですから、「愛」ははじめのはじめから充ち満ちているのに、「自分は一個の肉体だ」と考え、自分と他人を分離して考える“心の習慣”が、「愛」の自由な流出をじゃましているだけなのです。

これを克服することは、難しいことではありません。
その一つは、すでに、あなたご自身が体験しています。

>> 神想観後や聖典を拝読した後は、しばらくの間心が軽くなってすべての人の長所ばかりが見えて、ありがたい幸せだ、実相顕現とはこういうことだろうか。と素直に受け取ることができるのです

まずは、この神想観(観行)と聖典の拝読(誦行)を、倦まずたゆまず毎日、朝と晩に続けることです。

三界唯心(すべては心のカゲ)ですから、実相の大調和した世界をあなたが観じることで、それが現象世界に具現してきます。

もう一つ大切なことは、「愛行」です。神は「愛」そのものですから、神の子であるあなたの内には、はじめから「愛」が充ち満ちているのです。

だから、あなたが行うこと、すべてが、はじめから「愛行」そのものなのです。

生きていること、そのことが即ち「愛」が生きているのであり、語ること、そのことが即ち「愛」が語ることであり、行うこと、そのことが即ち「愛」が行っているのです。

その事実に気がつき、ご自身の一挙手一投足のすべてにわたって、光(愛)が生き、光(愛)が語り、光(愛)が行く、その荘厳な実相のみを観つめてください。

たとえば、あなたが、「罪悪感と自己嫌悪で苦しくなる」というのも、それはあなたの内に「愛」が充ちていればこそ、現象と実相とを比較して、現象の不完全な姿を見てこのような想いが湧いてくるのです。

しかし、現象は非実在であって、はじめから「無い」のです。

ですから「罪悪感と自己嫌悪で苦しく」なってきたら、現象の不完全な自分に注目することは一切やめて、実相・実在である「愛」にのみ注目して、

「私の内には“愛”が充ち満ちていたのだ」
「私は“愛”そのものだったのだ!」と、
褒め讃えることにしましょう。

分からないことがあれば、ご質問ください。時間のあるときにお答えします。


投稿: 久都間 繁 | 2016年3月 5日 (土) 18時02分

お返事が遅くなってしまい申し訳ありませんでした。
ご丁寧にお返事下さり、本当にありがとうございます。

自分を一個体だという感覚が拭えなかったのですがそれが神の愛をせき止めていたんですね、、。私の中にも神様の愛はちゃんとあったのに気付くことが出来ていなかっただけだと知り、心がスッと軽くなりました。
私の行うことすべてが愛行、考えたこともありませんでした。現象はナイ、ただ実相をのみを観て、どんどん前に進んでいきたいと思います!

これからは神想観、聖教読誦を毎日続けていきます。
先生のお言葉に今自分が何を為すべきなのがハッキリとしました。沢山自分で考えを捻じ曲げて悩んでいましたが、もう迷いません。
実相のみを観て、神様の愛を表現していきます。
思い切って質問して本当に良かったです。お忙しい中、ご指導下さり本当にありがとうございました。

投稿: ミツキ | 2016年3月 9日 (水) 19時32分

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