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2020年9月 3日 (木)

真理の灯を点して (2019.2)

 極寒から水温むまでの気候の変化が見舞うこの時期、各地では起源も分からぬ古来からの行事がいとなまれるが、「節分」などはその代表的なものである。追儺(ついな)や「鬼(おに)遣(や)らい」として源氏物語にも描かれたことから、この行事は世界中の読者の知ることとなった。追儺とは〝難を追い払う〟ということだが、「難儀は節や、節から芽が出る」と天理教祖は語り、「至道(しどう)無難(ぶなん)、唯嫌揀択(ゆいけんけんじやく)」と仏教では説き、難と見える悪現象本来無し「顧みて天地一切のものと和解せよ」と、生長の家は大調和の道を示している。

 その光明の道が開けないように見えるのは、私たちが、損得勘定と合理主義に縛られて〝世の常識〟と見える生き方(業の流転)に転ぜられているからである。その渦中にいる間は、生長の家の教えも、無限供給の真理も、完全なる健康も、遙かな遠い話で終わるほかないのである。

 追儺とは、古くは古事記に描かれたイザナギノミコトの禊(みそ)ぎ払いであり、生長の家で行ずる神想観である。これの実修によって、難儀の如く現れているもの(現象)と、本當に在るもの(実相)との違いが次第に明らかとなり、現象に振り回され引きずり回されることで生ずる難儀も、霞の如く消え失せるのである。

 救われるとは、握っていたものを〝放つ〟ことである。手を放てばそこに天地が満ちてくるのだ。物事に捉われ苦しむのは、空しき現象に心縛られているからである。ならば、縛りを解けばよい。縛りとは、無いものを有りと執着して心の自由を失うことである。執着は対象や相手にあるのではなく、私たちの〝ねばならぬ〟という心の尺度、つまり心のモノサシから生じているのだ。

 そんな尺度に惑わされてはいけない。損や得といった世の常識を超えた「今、ここ」に、神の生命が満ちているのである。その〝いのち〟に直接触れて〝ひとつ〟になる行事が神想観である。神想観から芽が出て、アイディアが生じ、難を転ずるのは、本當に在るもの(神)が顕れるからであり、因果を射照らす〝いのち〟がそこから湧出するのである。

『生命の實相』倫理篇によると、因果の法則と見えるものも、生長の家から観れば、唯心所現の法則によって生じた現象にすぎないと教えていただいている。真理は「今、ここ」にあるのだ。「今、ここ」に無いものなど神でも、光明でも、救いでもない。それは実在の仮面を被った現象にすぎないのである。

 信仰とは、実相を生活化することである。現象世界は、利害あり、迷いあり、死ありと見える世界であり、仏教では六道輪廻を彷徨(さまよ)うとも説かれる場合があるが、生長の家の教えは、その六道の渦中にあると見えるときでさえも、随所で〝真理の灯(ひ)を点(とも)す〟ことができるのである。日時計主義も、プロジェクト型組織(PBS)の活動も〝真理の灯(ひ)を点(とも)す〟実践であり、現代の文明への追(つい)儺(な)となるのは、実相(大調和の世界)は常に「今、ここ」に在るからである。その〝新しい文明〟の火は、あなたが四無量心を行じたその足元に灯されるのである。
  (二〇一九・二)

 

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