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2020年9月 3日 (木)

無条件に赤裸々に (2017.2)

 自然が身近にあった上代の人々は、この冬枯れた極寒に咲く花や、木々の梢のほのかな膨らみを愛でつつ、天地を取り巻く大自然といのちを通わせていたことだろう。立春は春の到来を告げる季語だが、その言葉から甦る内的な感覚は、自然とともに生きてた古代の人々からの密かな伝言のようにも思えるのである。

 古くから伝わる言葉には、古人の心ばえが現れている。その心ばえを読み取ることができれば、時を越えて心を通わすこともできるのだが、今日の尺度を持って彼らの心を推し量っていたのでは、何も見えてこないし、心通わせることもできないのは、世代を越えた子や孫との会話も同じであろう。私たちは心の耳を澄ませて、自然の声に、樹の声に、子どもの声に、風の音や水の音に心寄せるとき、今まで聞くことは出来ないと思っていた声が、向こうから静かに語りかけてくるのを聴くのである。

 道元禅師は『正法眼蔵』の中で、「冬の春となるとおもはず、春の夏になるといはぬなり」(現成公案)と宣べている。原因があればこそ結果が現れるというのが「因果の法則」であるが、道元が伝えていることは現象上の原因と見えているもののことではなく、天地を貫く「真因」(実相)のことである。

 聖経『甘露の法雨』に、「真の『生命』は物質に非ず、肉体に非ず」と教えていただいている。目覚めているのに夢を見ることを無明というが、現象は明暗混交の世界であり、これを仏教では大夢という。また、イエス・キリストは「されど見ゆという罪は残れり」と説いた。現れているもの(現象)を前提に、因果の法則があり悪因・悪業があるなどと解釈していたのでは無明縁起説への後戻りである。真の原因(実相)となるのは完全円満なる神のみである。

 諺に「捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という言葉があるが、これは「ニセモノを捨て去る」ことであり〝捨徳〟の実践である。捨てるとは〝無条件になる〟ことである。現象に不完全な姿を認めてこれを変えようと努め励むのではなく、その奥にある神のいのち、仏のいのちをただただ拝むのである。この現象を超えた拝みを〝絶対感謝〟という。悪現象と見えていたものは無明(まよい)が消え去る浄めの相(すがた)であり、その背後にある「実相」を観て喜び生きるのが日時計主義の生活である。

 さて、二月二十六日の「教育フォーラム」は「子どもは奇蹟のカタマリだ!」のテーマで開催する。子どもも大人も、そこに神を拝めば神が顕れ、仏を拝めば仏が現れる。現象だけを見ていれば不自由な肉体や不完全な人格しか見えてこないが、こちらの都合を去り、我見の尺度をかな繰り捨てて、無条件の赤裸々になって感謝礼拝すれば、そこに奇蹟そのものである実相・神の子が、はじめから在ったことが分かるのである。  
(二〇一七・二)

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