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2020年9月 3日 (木)

現(うつ)し身の使命について (2017.9)

 これは五十年以上も前の話だが、かつて三島の禅寺の一室を借りて生長の家誌友会を開いていた旧友が、そこの和尚に「霊界」について訊ねると、「ふすまの向こうの隣の部屋だ」と語っていたそうだ。しかしながら、霊界は〝もっと近い〟というのが真相かもしれない。なぜなら、こちらから向こう(霊界)を覗(のぞ)くことはめったにないが、向こう側からは、どうやらその気になりさえすれば、いつでもこの世(現世)のことは〝お見通し〟と思われるからである。

 今年の六月、恩師の霊前にお参りするため、故人宅を訪問してご家族の皆さんと会食する機会があった。思い出話に花を咲かせ、これまでの神慮や近況などを語り合っているとき、突然「ガチャン!」と、仏壇付近で大きな音が鳴った。一瞬なにが起こったか分からなかったが、よくよく見ると、数時間前にお線香をあげてチーンと鳴らした台座のリンが、誰も触れていないのに、跳ねて飛んで床に鎮座しているではないか・・・・・・。その場にいた皆が恩師の来訪を察し、タイミングといい登場の仕方といい〝なんて先生らしい!〟と、皆で大笑いしたのであるが、さては、「吾々の話をずっと聴いていらっしゃったのか・・・」と思った。

 さて、死を境に住む世界を異にするとは、いったいどういうことか。死とは、現界の生活の一切を捨て、新世界に誕生するという不思議な経験を経ることであるが、不思議としか見えないのは、現界に住む私たちがその全容を見通す機会が希(まれ)だからである。しかし「観」の眼で観れば、現世も霊界も念の世界であり、これら両界の〝救い〟の原理もまた同様である。「念」を調律するための行事として、生長の家では神想観を教えていただいている。これは宇宙大生命の大慈悲の現れである生長の家大神が直接導き給うから、これほど確かな「行」はない。『生命の實相』劈頭(へきとう)にある黙示録に、久遠のキリストの言葉として「生と陰府(よみ)との鍵をもてり」と記されているのは、顕幽両界の一切を司る本源者を意味しているのだ。念の浄化とは、顕幽を彷徨(さまよう)う境涯から、その本源者(神=光)に帰ることにほかならない。

 神の子の境涯を生長の家では「聖使命」と讃えている。それは、「神より出でたる光」として〝聖〟なる使命を生きることである。大神が守護する無限愛のネットワークの恵みの体系、それが現世における「聖使命会」の制度となって現れている。それは神の慈愛の流れが顕現した相(すがた)であり、その〝光り〟の最先端が私たち聖使命菩薩である。


 聖典には、伝道は利己的動機が含まれない〝純粋な献身〟が要求される、と説かれている。〝純粋な献身〟の中から、実相世界さながらの仏国土が現成する。この世界で、このご縁に、生きとし生けるもののために「献身できる」ということが、現世に、私たちが〝現し身〟としての肉体を授けられていることの真の理由であり、仏の四無量心を生きる〝聖なる使命〟であることを、恩師の奇瑞に接して、あらためて想うのである。  
(二〇一七・九)

 

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