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2020年9月 3日 (木)

仏のいのちの展開 (2017.11)

 終末論は、世界の終わりを告げる教義とされているが、かつて大学の哲学科に席を置いて西洋思想史について学んでいたとき、強く印象に残ったのは、「キリスト教文化圏(西洋)に住む人々の時間は、一直線に終末へと向かって流れている」という、驚くような時間感覚だった。つまり、すべての人生が、歴史が、森羅万象が、終末、即ち〝世界の終わり〟へと直線的に突き進んでいて、その「時が来る」と、神による最後の審判が行われ、善き者は天国へ、悪しき者は地獄へ赴(おもむ)くというものだ。

 一方、日本や東アジアにおける伝統的な時間感覚は、現代では見え難くなっているが基本的には循環(じゅんかん)型である。春夏秋冬のようにぐるぐると廻るのだ。例えば一年は元旦から始まり十二月の除夜の鐘とともに往(ゆ)き、年が明けて日の出を迎えて新生する。また干支(えと)も子(ね)丑(うし)寅(とら)・・・と十二年で一周し、さらに六十年を経ると還暦(本卦還り)となる。また、人の一生も死によって終わらず、輪廻(りんね)転生を繰り返し生まれ更るとされている。また現世における家督(かとく)や公的な事業も、次世代へと代々受け継がれて更新する。これは自然のいとなみと共に無限に生長する循環型の時間感覚である。

 私たちは「時間」をどのように観るかによって、それぞれの価値観や生き方が決まる。道元は、時間を「いのち」と観ていた。時間を物質空間を流れる無機的な単位と見るのではなく、森羅(しんら)万象(ばんしよう)となって現れる〝仏のいのちの展開〟と拝んだのである。そのような生命の時間における人生は、たとえ躓(つまず)きや失敗があったとしても、何度でもやり直しや挑戦ができる生命顕現の〝舞台〟となり、すべてが生長の糧となる。が、終末的な直線時間の場合はそうはいかないだろう。

 あまり意識されることはないが、生長の家の運動方針は、国際本部の〝森の中のオフィス〟移転とともに暦(こよみ)のように一月始まりで十二月終わりとなる循環型へと変更された。これは、ある時点での「数」という結果を求める目的優先で直線的な運動から、「自然と共に」いのちを展開する循環型の運動へと、運動の時間軸が変化したことを意味している、と私は観ている。

「自然と共に伸びる」ことに重点を置いたことは、信徒行事要目における「一切の人に物に事に行き届くべし」という信仰の原点への回帰であり、人間のみならず「天地一切のもの」を救わずにはおかない神の愛、仏の四無量心が運動の核心部分として顕れたのである。つまり、慣習によって進められてきた「目標数」の達成という目的優先(三次元)の運動から、神・自然・人間の大調和を目指した生命的な意味優先(七次元)の運動へと根源的な転換を遂げたのである。

 それは十把一絡(じゆつぱひとから)げ的な運動ではなく、森羅万象とともに神のいのちを生きる、愛と祈りを成就するための運動となったことを、あらためて想うのである。私たちはこの〝生命の側〟に起ち、生長の家講習会をはじめととする国際平和信仰運動を、仏の慈・悲・喜・捨の〝いのちの展開〟として、天地一切のものとともに推進する。そこから過去・現在・未来のすべての時が成仏するのである。 
(二〇一七・十一)

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