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2020年9月 3日 (木)

捨徳について (2019.8)

 読書は時間・空間を超えて、古人の魂や、人類の叡智と繋がるための〝扉〟である。私たちは、真理を求め意識の拡大を求めて、より深く広い世界の扉を開こうとするのであるが、それは「心」は時空を超えて〝つながっている〟からである。だから誰もが、千年の時を隔てた万葉の歌人たちと心を通わせることが可能であり、二千年前の聖者のコトバに耳を傾け、三千年前の哲学者や仏陀が説いた真理が、時を越えて現代の暗を照らすのである。

 本さえあれば、誰でもその叡智と繋がる権利を得るのであるが、それを開くカギは、お金で買うことはできないし、ネットで検索してみても駄目で、あらゆる条件が整っていても叡智を紐解く人がまれなのには理由がある。それを開くのは、おそらく知識でも経験でも学力でもなく〝共感する心(empathy)〟ではないだろうか。宗教的に云えば、四無量心の働きである。つまり慈悲喜捨の〝心の鍵〟を回すことによってのみ、聖典や仏典に託された叡智を開くことができるのだ。

 これは神への〝祈り〟についても同じことが言える。そのことに私たちが気付き難いのは、自身の五体や過去の習慣に捉われて、人間を肉体としてみる唯物思想の術中に陥(おちい)っているからである。これについて『甘露の法雨』は、「人間は塵にて造られたりと云う神学なり。近くは、人間は物質にて造られたりと云う近代科学なり」と警鐘を鳴らしている。この渦中から逃れる道が、慈悲喜捨の四無量心を行ずることから開けるのである。

  私たちは、数(あま)多(た)の選択肢の中で生きている。祈りも、読書も、愛行も、ともに時間の使い道を選択することによって得られ、人生は選択したものによって形作られるのであるが、善き選択とは、利己的な価値や慣習を〝捨てる〟ことから開けてくるのである。仏教ではこれを「捨徳」と呼んでいる。「捨徳」は〝身削ぎ〟であり、一切の執着を解き放ち、生まれ更(かわ)ることである。古諺に「捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」とあるのは、捨てさえすれば、必ず浮かぶ道が開けることを明示しているのだ。捨てるのは、私たちの執着であり、悪しき習慣である。この世は唯心所現の世界であり、現象(ニセモノ)を實相と取り違えていたのでは永遠に浮かぶ瀬にたどり着くことはできない。罪と病と死とのニセモノを吹き払う行事が「捨徳」の実践、即ち「現象無し!」と照見する神想観である。
 (二〇一九・八)

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