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2020年9月 3日 (木)

不死鳥のように (2017.3)

「挑む」という言葉がある。その挑戦的な語感から、いかにも近世の言葉かと思われるのであるが、実は古事記にも登場することから古くからの大和(やまと)言葉であることが分かる。そのひたすらな、内面に秘めた〝想い〟をつよく先鋭化させる響きは、この列島に去来した人々に、処世における深い覚悟を鼓舞し続けているように思われるのである。

 この花の季節は、新生活への出発の時期でもある。裏返せば「別れ」の時節である。「いどむ」とは、前者に向けられた心の姿勢であり、旧きものに別れを告げて渾身の勇気を振り絞って新しいことをスタートする者への餞(はなむけ)の言葉でもある。思えば私たちは、人生において、幾度もこのようなときをくぐり抜けてきたのではないだろうか。捨て身になって、何もかも振り捨てて、裸一貫のカラダすら失うような状況の中から、青息吐息で歩き続けたその果てに、ふと周りを見渡せば花爛漫のただ中にいたことに気付いた方も多かろうと思う。

「人間神の子無限力」とは、言いようのない困難の渦中で踏み出した、その一歩一歩の中からしか現実のものとならないということも、経てきた者でしか顧みることはできないのであるが、西洋における不死鳥(フェニツクス)の伝説で、傷つき疲れ果てた肉体が、火に焼かれ、燃え尽きたその灰の中から〝永遠の生命〟として蘇るという喩えも、ニセモノ(現象)を杖(つえ)としていつまでも寄り頼っていたのでは、真生命(実相)に到ることができないということを教えているのだ。

「挑む」とは、他と争うことではない。宗教的には、マタイ伝の一節にあるイエスの言葉にその真意が表れている。
「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟(おきて)である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」(22・37-39)
これは、自他の対立を越えた真理(まこと)を生きよ、という教えである。そこから新たな〝ムスビ〟の世界が開けてくるのだ。ニセモノの現象に、不完全と見える相手に、「怺(こら)えたり我慢して」妥協して生きる余地があると見えている間は、生長の家の教えも他人事としてしか響かないだろう。しかし、身を捨てて挑まなければならない時節は必ず来るのである。

 み教えは、私たちを取り巻くすべてが観世音菩薩であると説く。つまり行くも、退くも、避けて通ることができない一躍超入如来地が眼前にあり、現在の百尺竿頭上は、すでに神の大慈悲のただ中に生かされていることの証(あかし)でもある。「挑む」とは、日々の生業(なりわい)の中で、暮らしの中で、祈りの中で、真理のコトバによって内なるニセモノを身削ぎ祓い、如来の懐の中に飛び込むことである。そこを通過してのみ、本ものが、肉体以上のものが、現象に由来しない円満完全な「実相」が顕れる。不死鳥のように、永遠に蘇り新生する無限生長の道が、そこに開かれるのである。
  (二〇一七・三)

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