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2020年9月 3日 (木)

ひとつのいのち (2019.3)

 これは道元の『正法眼蔵』に出てくるエピソードだが、ある僧が「古仏心とはなんですか?」と師に尋ねると、「世界崩壊だ!」と答えたことが紹介されている。崩壊する世界とは、この世のことである。静かに見つめれば、この世に崩壊しないものなど何一つないのであり、それは現象世界の相(すがた)でもある。私たちの身体も新陳代謝を繰り返しながら絶えず崩壊しているのであり、もしこれを止めれば生命の営みは終わるのである。それは私たちの信仰や、精神や、人や物や事との交流における生命の自然な姿であるが、世界崩壊の背後には〝生み出してやまぬもの〟があり、それが道元が説く「古仏心」である。

 また道元は、「古仏心は牆壁(しょうへき)瓦礫(がれき)なり」とも説いている。つまり古仏心は、垣根や瓦(かわら)や石ころであり、それはあらゆる処に存在して、美醜を越え、大小を越え、天地いっぱいに満ちているというのだ。つまり古仏心とは宇宙大生命を表す言葉であり、それが「此処に見よ、彼処(かしこ)に見よ」というがごとく一定の現象に固定されてないのは、すべてがその出現であり、すべてが〝ひとつのいのち〟だからである。

 菩薩行とは、この〝ひとつのいのち〟が生きて歩むことであり、そこに〝ムスビの働き〟が顕れるのである。この宇宙は、あらゆる人と時と処とが〝ムスビの場〟である。出合いはどこにでもあるのだ。それを結ぶ働きが、塩椎大神(住吉大神)としてのご使命を生きる私たち生長の家である。

 三十数年前のこと、当時生長の家宇治別格本山で総務をされていた楠本加美野先生に、家内と結婚することをご報告に行ったとき、先生から「全托」ということをお話いただいた。生長の家の信仰生活での大切な鍵(かぎ)として「全托」という言葉が使われるが、それは天地一切のものと私たちとは〝ひとつのいのち〟であることに由来した言葉である。現象界では、私たちを取り巻く外界は無数の他者に分かれ、全てバラバラのようにしか見えない。しかし、すべては〝ひとつのいのち〟であり、そこには他者などなく〝ひとつのいのち〟だけがあり、私が生きているように見えるのは〝ひとつのいのち〟なるものが生きているのであり、この〝いのち〟に生かされて生きるのが「全托」の生活である。

 つまり全托とは、神様のみ懐(ふところ)に抱かれた大安心の信仰のことである。仏教で、「至道(しどう)無難(ぶなん)、唯嫌揀択(ゆいけんけんじやく)」という言葉があるが、これは「道に至るのは難しいことではない。ただ選り好みや好き嫌いをしてはいけないよ」という意味である。これは自我(ego)の都合やモノサシを優先して生きていると、神の智慧や導きから逸(そ)れてしまい、要らぬ困難が山積することを伝えている。全托の生活は〝神様はいちばん善いように必ず導いてくださる〟という神想観による神への中心帰一であり、宇宙大生命の智慧と愛と生命に導かれて無(む)礙(げ)の大(だい)道(どう)を歩む生活である。
 (二〇一九・三)

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