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2020年9月 3日 (木)

〝内なる神性〟について (2017.6)

〝内なる神性〟とは、私たちの本質であり、実相のことである。これを仏教では「仏性」という。かつて仏典の涅槃経にある「一切衆生悉有(しつう)仏性」という言葉を、道元以前の学僧たちは「一切衆生悉(ことごと)くのものに仏性が宿る」と解釈していたが、道元によって「一切衆生悉くが仏性である!」と喝破(かっぱ)され、釈尊の教えが世界に蘇った。教化部で毎月開催している真理勉強会「道元の正法眼蔵と生長の家」(テキスト『「正法眼蔵」を読む』上巻)は、この宗教の根源に推参して、道元禅師と谷口清超先生のライフワークから、教えの神髄を昧読して私たちの生活に蘇らせる試みである。

〝内なる神性〟とは、私たちの内に在るキリストである。イエスをあなたの内に見出すことこそが、真の意味でのキリストの復活である。仮に彼が、世界のどこかに復活したように見えたとしても、「吾と汝となんの関わりあらんや」とあなたは一蹴しなければならない。なぜなら、あなたを離れてキリストなど何処(どこ)にも無いからである。釈尊は生まれて間もなく「天上天下唯我独尊」と宜り給うたが、それは〝内なる神性〟の誕生を祝福する宣言である。釈迦が生まれたのは三千年前の過去ではなく、私たちの内に、常に誕生し給うているのである。その誕生仏を祝し、キリストの復活を祝う行事が、神想観である。祈りの坐が結ばれるところ、過去・現在・未来の一切の因縁が成就し、あなたの行為のすべては愛行となる。

 さらに〝内なる神性〟とは、私たちを導き給う「内なる神」である。『堅信歌』では、「吾が護り常に全し」と歌われている。神は常に〝内に〟在るが故に、護らなかったり、忘れたり見失ったりすることは決して無いのである。

 ある日の「四無量心を行ずる神想観」の折〝すべては神が為し給う〟と、内なる声がささやくのが聴こえた。一切衆生の苦しみを除くことも、悩みを和らげることも、楽を与えることも、喜びを与えることも、すべては神が為し給うのであり、私が為すのではなかったのである。私が為すのであれば、重荷にも感じ、苦痛とも感じ、成就するか否かも気になるのであるが、四無量心は神が、仏が、宇宙大生命が行じ給う大慈悲であり、それは地上天国実現に直結する荘厳な菩薩行なのである。だから神想観を実修すればするほど、自他ともに楽になり、抜苦与楽の実践となり、仏のいのちが顕現するのである。

 すなわち抜苦与楽とは〝本来の相(すがた)に帰る〟ことにほかならない。私たちの本来相は、神性・仏性であるから、ここに帰ることは、時空を超えて渾(すべ)てに充ち給うことである。つまり宇宙に満ちる人間・神の子の実相(宇宙大生命)に帰ることこそが「楽」であると同時に「喜び」であり、中心帰一の醍醐味であり、神の子・人間復活のときである。
  (二〇一七・六)

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