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2020年9月 4日 (金)

病気を癒やす秘訣 (2020.7)

『続々甘露の法雨』には、「病気を癒やすとは、畢竟(ひっきょう)、本来完全なる『神の子・人間』を顕現すること」にある、と説かれている。

 また『「人間・神の子」の自覚より、更に進んで「神の子・人間」の自覚に入るべし』と示されている。

  コロナ禍による、さまざまな社会的な制約が重なる中で、あらためて生長の家の信仰の原点である「神の子・人間の自覚」ということに注目してみたい。

 谷口清超先生は『「正法眼蔵」を読む』(弁道話)の中で、「この世は、仏のいのちのあらわれである」とお説きくださっているが、皆さんは「この世」のことをどのように見ていらっしゃるだろうか。

 生存競争に注目していれば、優勝劣敗の法則が支配する殺伐たる世界が眼前にあらわれるだろう。また、因縁仮和合(いんねんけわごう)の輪廻(りんね)転生の世界と見れば、その明暗混交の姿が現れるのである。

 多少なりとも生長の家を学んだ人は、実相と現象とを分けて「この世」を現象世界として見るのであるが、それだけではまだ“本もの”の信仰でないことを、清超先生のこのお言葉から学ぶことができるのである。

「この世は、仏のいのちのあらわれである」とは、私たちに「この世」についての“再定義”を迫る言葉である。

 それは「大調和の神示」に説かれた「汝ら天地一切のものと和解せよ」の言葉と同様に、私たちの“観の転換”が求められているのである。

 それらの言葉の背後にある神意を汲み取らなければ、その信仰はまだ「この世」の本当の相(すがた)と出合っていない。

 大調和の神示にある「顧みて和解せよ」の言葉は、そのことを繰り返し告げて「人間・神の子」から「神の子・人間」への“自覚の転換”を促(うなが)しているのだ。

 わたしたちが大切なことを実行できないとき、その言い分けに「忙しいから」とか、「私は・・・をしているから」と言って“出来ない理由”を挙げて、自身や周りに伝えてしまうのであるが、これらの“言い分け”は、いまだ「この世」を時間・空間で制限された「物質」と見ている怠惰な心の習慣と、「言葉の創化力」への無知とを語っているのである。

 言葉は人生を創るのである。

 私たちが「迷いの言葉」を口にすることで、どれだけ多くの人を巻き込み、豊かで美しく楽しいはずの人生を、狭く、辛く、苦しいものに塗り替えてしまっていたか、ということに気が付かなければならない。

 それが「顧みる」ことであり、教えの基本に帰ることである。

「神の子・人間」の自覚とは、「この世」のすべてのものは、神の愛、仏の大慈悲の表れであり、私たちはその中に生かされ、赦されて今ここにいる、ことへの深い感謝から生まれてくる。

 もしあなたがその自覚を見失っていたのなら、顧みて自身が肉体であり物質であると見ていたこれまでの無明を、大空へと解き放ってしまわなければならない。

「神の子・人間」の自覚は、宇宙大生命に全托すること、つまり「神さま、私をあなたの御心のままに自由にお使いください」との無我全托の祈りから、開けて来るのである。

  (二〇二〇・七)

 

 

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