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2020年9月 3日 (木)

喜びは、小さければ小さいほど・・・ (2016.7)

 生長の家の信仰の大きな特徴は「日時計主義」である。日々の暮らしで見つけた嬉しいこと、楽しいこと、ありがたいことなど光明面のみに注目して、言葉で語り、綴り、思い出し、喜び、感謝することで「三界唯心」の心の法則によって次々と人生に光明が展開するのである。

 この生き方の特徴は「人生の光明面」を見ることだが、大きな悦びだけを待ち構えていたのでは、あなたの日時計は「時」を刻むことはできない。「神は細部に宿る」と云われているように〝小さな喜び〟に注目することこそが、この生き方の秘訣である。神から視れば喜びには大きいも小さいもなく、むしろ生長の家の日時計主義では、喜びは〝小さければ小さいほどよい!〟のだ。

 私たちは人生の経験から獲得した、それぞれの「心のモノサシ」という〝我執〟を持っている。小さな喜びが周りに無数に湧き出していても、あなたの「心のモノサシ」の基準に当てはまらなければ、そこは真っ暗闇の茫漠(ぼうばく)たる砂漠に見えるかもしれない。ところが、「喜びは、小さければ小さいほどよい」ということになれば、その「モノサシ」は彼方に吹っ飛び、観える世界が一挙に広がる。すると、雲が晴れた夜空に無限の星くずや月が初めから輝いていたように、到るところに真象があらわれ、あなたを迎え入れるのだ。

 かつて亡き恩師から、聖典を拝読するときの心得として「文字間に宇宙が宿る」と教えていただいたことがある。今にして想えば、神は書かれた文字や聖典にはなく、「不立文字」と言われるところに宿ることを暗示していたのだ。生活にも、同じく〝文字間〟がある。私たちが、お金やモノや地位などの現象に、直接「幸福」を求めている間は、永遠に真の豊かさを吾がものとすることはできない。しかし、今日の日を無事に迎えられたことの中に、足下に咲く可憐な草花に、そこに輝く露の光に、家族との親しい語らいに、当たり前と見えることの中に〝文字間〟からのメッセージが鳴り響いているのである。

 さて、生芸連委員長の布井剛講師によると、スケッチは対象の印象や記憶だけに頼って描いたのでは、次第に実物と懸け離れたものになってしまうが、目を離さずに対象を観察して、じっくり写生することで正確な絵が描けると教えていただいたが、この方法は「日時計主義の生き方」とも重なるのである。つまり相手を、印象や先入観で見るのを止めて、いのちをよく観察して、『日時計日記』に書き綴るのである。つまり〝真象〟に注目して言葉に表現することで、夫が、妻が、姑が、嫁が、そして息子が、娘が、孫が〝真実の姿〟をもってそこに立ち現れるのである。

 信仰による奇蹟は特別なものではない。あなたが実相を直視して喜ぶ日時計主義のカギを回せば、今、ここに湧出する。それは、これから造り出すのではなくて、私たちが「小さな喜び」に注目するだけで、その小さな光と見えたものが、実は比較を絶した、宇宙に遍(あまね)く充ちる光(宇宙大生命)であることが観えてくるのである。
 (二〇一六・七)

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