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2020年9月 3日 (木)

心の耳を澄ませてみれば (2016.8)

 七月中旬、八王子での講習会決起大会に向かうため、自宅から青梅駅までの坂道を急ぎ足で歩いていた。清宝院という寺の前まで来ると、大きな亀が同じ方向を黙々と歩いているではないか。十年以上同じ道を通勤しているが、こんな光景を見たのは初めてだった。先を急いでいたので、彼を横目で見ながら追い越したものの、なぜか気になり振り返ると、くだんの亀も歩みを止め、細い目でじっと私を見つめながら、「おまえさん、そんなに急いで、いったいどこへ行きなさる・・・」そんなことを語りかけているように見えるではないか。ウサギとカメの話が脳裏をよぎった。

 観世音菩薩は「あらゆる姿とあらわれて、私たちに救いの説法を宣示したまう」と教えていただいている。亀がメッセージを投げかけてきて今さら何の不思議があろう。電車に乗り、ノートを広げると、これから向かう講習会決起大会でお話することについて、所感を書きはじめた。

  「決起」とは、そこに何ものが「起(た)つ」のか、ということが重要である。「肉体人間」が立つのか、それとも「神の子・人間」が起つのか。そこを明確にすることで、講習会推進に、神の光りの運動としての画(が)龍(りよう)点(てん)睛(せい)の燈(ひ)が灯(とも)るのである。「肉体人間」は諸行無常の住人であり、永遠に「起つ」場所を持たない。しかし霊的実在である神の子なる実相人間は、はじめから起っているのだ。「起つ」とは物理的に立つのではない。それは神の理念が起つのであり、理念は常に内部理想を創造し起ち続ける。

 ここまで綴って、電車は立川に到着した。その後、半月ほどで教区内の十会場を回り、各総連での決起大会は滞りなく終了した。そして九月に入り、今度は地区連訪問のため同じ道を歩いていると、再び脳裏に、あの亀の姿がよみがえってきた。電車でノートを開いて次のことを綴り始めた。

   私たちが起つべき場所は、中心帰一の世界である。中心とは「世界平和の祈り」で祈念する実相世界であり、天之御中主之大神の本源世界である。そこに「起つ」とは、仏の四無量心に、神の愛に、生かされて生きることである。天皇陛下の大(おお)御(み)心(こころ)に生かされることである。「発心」という言葉があるが、これは自分が発するのではない。それは〝中心(宇宙大生命)なるもの〟に生かされることであり、ここに起っての発心が、過去・現在・未来を無礙の光明で照らし、すべての物事を、一切の因縁を円満に成就する。それが、神の光の展開である生長の家人類光明化運動である。中心帰一とは、日々めぐり来る一つひとつのことを忽(ゆるが)せにせず、御心(慈悲喜捨)を行じさせていただくことである。その一つひとつから実相世界が花開いてくるのだ。国際平和信仰運動とは、私たちの最も身近な一つひとつに浄土を現成する運動であり、神の愛を生きることの地道な積み重ねである。

 ここまで書いたところで目的の駅に着いた。観世音菩薩は、あらゆる姿と現れて、真理の説法を奏でている。「心に耳ある者は聴くべし、心に眼ある者は見るべし」講習会推進もいよいよ大詰めのとき。こんなときこそ、心の耳を澄ませてみよう。
 (二〇一六・九)

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