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2020年9月 4日 (金)

より善く生きる (2020.9)

 これは奈良時代の話であるが、仏教僧の行基(ぎょうき)が聖武天皇の大御心(おおみごころ)をうけて東大寺の大仏建立に尽力し、特に貧しい村々を托鉢(たくはつ)して廻った逸話はよく知られている。

 彼が学んだ唯識思想では「心外無別法(しんげむべっぽう)」、つまりすべては自分の心が作りだした現象であると説く。

 つまり、貧しさは、与えていなかったが故の業の結果であり、そんな徳積み(慈悲喜捨の生き方)を忘れた人々を救済するために行基は、貧しい村ばかり巡って菩薩行に励んだという。

 そんな足跡が『続日本紀』に記録されているが、「多くの人々が教化を慕った」という行基菩薩の姿は、時代を超えた光明を、今も放ち続けているように想えるのである。

 たとえば『無門関解釈』(谷口雅春著)に「趙州狗子(でうしゆうくし)」という公案がある。

 雅春先生は、「狗子(犬ころ)の中に仏性が入り込んで生きているというような『仏性』というものはない(中略)狗子は狗子そのままで正法現前である」とお説きくださっている。

 その意味は、天地に満ちる仏性を生きていない者には、ただの狗子(いぬころ)にしか見えないが、「肉体は無い、物質は無い、因縁は無い、そんなものを全部否定したときに、この世界がこのまま神一元、ここがこの世のこのまま極楽、天国じゃという真理が解る」と、唯神実相の世界をお説きくださっている。

 この視座に立つと、行基が、一切衆生に何を拝み、何を観て托鉢されていたのかが観えてくるようである。

 貧しい民衆も、飢え病み、死にかけている人々も、行基の肉体の目には映っていても、心の眼は生と死という現象を越えて“仏のいのち”を拝んでいたのであろう。

 衆生の中に眠っていた“仏のいのち”を鳴り響かせれば、そこに天国極楽が湧出することが分かっていればこそ、彼は貧しい、現象的には素寒貧(すかんぴん)としか見えない村々ばかりを巡っていたのだ。

 貧しく見えている衆生は、仏性であることに無自覚な“仏のいのち”であり、彼はただその仏性を托鉢による“喜捨”を通して引き出したのである。

 天平時代の大仏建立という華やかな歴史の裏で、当時の記録によると激しい地震が何度も見舞い、まるで地獄の様相を呈していたであろう寒村を前に、そこにただただ“仏のいのち”を観て礼拝し托鉢する、行基の菩薩としての姿が拝察できるのである。

 谷口純子先生が、コロナ給付金の一部を世の中のために寄付することを呼びかけられたが、それは持てる者から持たざる者への富の循環をということだけではなく、純子先生は私たちの「神の子・人間」の実相を深く礼拝されていればこそ、現代の喜捨であるコロナ禍の社会への寄付をお勧めになられたのである。

 その寄付によって活かされるお金は、世の中を着実に善き方向へと変えていく。

 あらゆるものが急激に変化しているコロナ禍の中で、私たちがどのような生き方を選択するかによって、これからの世界が決定されるだろう。あなたはその岐路に立ち、神の子として“新しい文明”を創る責任を担っていることを忘れてはならない。

 すべては、私たちの日々の選択と行動とが発端となり、そこから全てが始まるのだ。より善く生きたところに、より善い世界が現れるのである。

  (二〇二〇・九)

 

 

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