« 自然と人間との絆 (2017.12) | トップページ | PBS活動は次世代への愛行 (2012.2) »

2020年9月 3日 (木)

神に遠慮しないこと (2018.1)

 昨年十月から、講習会を推進するための「真理講話による地区訪問」をさせていただき、二十数会場を廻らせていただいた。その折に「四無量心を行ずる神想観」を皆さんと実修させていただいたが、この祈りについて、若干の所感を書かせていただこうと思う。

 「四無量心を行ずる」とは、いったい何ものが「行じる」と皆さんは思われるだろうか。もし「私」が行じているのだとすれば、この祈りは、その力も効力も「私」という〝自我〟の及ぼす範囲が限界となることだろう。しかし四無量心の「無量」とは〝量が無い〟即ち「無限」を意味する言葉である。ということは、この祈りは「私」が行じているのではなく、私たちに内在する仏性が行じているのであって、「私」の入る余地はないのである。別の言い方をすれば〝私は無い〟のであり、私と思わせていただいているものの本質は、まごうことなき〝仏性〟であって、これまで一度も仏から離れたことなどないのである。その〝仏性〟が行ずるのが四無量心であり、行ずれば行ずるほど仏(実相)が目覚め自性円満の自覚が深まるのである。

 では、仏の慈・悲・喜・捨の及ぶ範囲はどこまでだろうか。これもまた〝無量〟であり、その及ばざるところは無いのである。私たちは何の疑いもなく人間知でさまざまな限界を設けていることに気づかなければならない。つまり、四無量心の及ぶところは〝宇宙隈(くま)無(な)く〟ということである。

 仏の四無量心とは宇宙大生命の無限大の抜苦与楽の働きであり、「苦しみを除き」と云えば苦しみは除かれるのであり、「楽を与え」と云えば楽は与えられるのである。なぜなら四無量心の〝祈りの言葉〟は、観世音菩薩のコトバだからである。その仏の〝無量の慈悲〟を私(わたくし)心(ごころ)で見限ってはならない。私たちの運動は信仰運動なのであり、その運動を人間知によって限定するところに神性隠(いん)蔽(ぺい)が生ずるのだ。

 つまり四無量心を行ずるとは〝限定無し〟であり、「遠慮してはいけない」ということである。現象的な価値を基準にして遠慮することは、一見奥ゆかしいようでいて実は神性隠(いん)蔽(ぺい)となり、仏性(神)を自我によってツツミ(罪)隠(かく)すことになり、そこからあらゆる禍(まが)事(ごと)めいたものが生じ、遂に今生において神性を顕現させる機を失うことにもなるのだ。その最大のものは「神に遠慮すること」である。生長の家を信仰していてこれほど勿(もつ)体(たい)ないことはない。遠慮なく神に願い、遠慮なく神に委ね、どんな小さなことでも、どんなに私的で細(ささ)やかなことでも、またどんなに遠大なことでも〝遠慮なく〟神に願い委ね、全托するのだ。その最たるものが「四無量心を行ずる神想観」である。

 講習会の推進も、へたな遠慮をしていてはいけない。これは神と共に行う純粋な宗教行である。これの推進を機に、私たちのあらゆる願いを、諦(あきら)めかけていた夢を、叶わないと思い込んでいた心願の一切を、祝福の祈りと共に成就する。それが自他ともに救われる生長の家の信仰であり、講習会推進の真の目的であり、神の子としての使命、すなわち一筋の光の道を踏(ふ)み往(ゆ)くことである。 
(二〇一八・一)

|

« 自然と人間との絆 (2017.12) | トップページ | PBS活動は次世代への愛行 (2012.2) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 自然と人間との絆 (2017.12) | トップページ | PBS活動は次世代への愛行 (2012.2) »