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2020年9月 3日 (木)

ムスビの働きと地湧の浄土 (2018.4)

 二十代のころ、夜明け前にモーツァルトのピアノ協奏曲第二十四番(K491)を聴いていたとき、曲の展開とともに輪廻(りんね)のいとなみをまざまざとたどっているような、そんな不思議な経験をしたことがある。輪廻とは「衆生が三界六道の迷いの世界に生死を繰り返すこと」(大辞林)と辞書は説明しているが、そんな無明に縁起した通説を超えて、輪廻は私たちの使命と深く関係しているように思えてならない。

 使命とは、授けられた〝いのち〟のつとめ、といった意味だが、み教えは〝いのちは神である〟と説いている。つまり神を生き、仏を生きることが使命である。人間が〝神の子〟であるということは、私たちの生は、そのまま神(仏)のいのちであり、無駄なものは一つもないのであり、いのちの側(光明面)から観れば、生命が織りなす創造と光りとに満ちているのだ。

 〝ムスビの働き〟は、すべての問題を成就するカギである。ムスビとは、「個」と「個」が深く交わることであるが、「個」と見えているのは仮の姿であって、私たちの生命の実相は自他を超えた宇宙大生命である。ムスビは自他を越え、利害対立を超えて深く交わることで、円満な実相が顕現する働きであり、そこに創造の喜びが、楽しいアイディアが、世界を一変させる新価値が生まれるのである。

 昔話に「花咲か爺さん」という悲しみと喜びが同居した物語がある。開花に到るまでに愛犬の無残な死があり、犬の墓に植えた樹木の成長と伐採、そして臼(うす)の制作と、その臼でついた餅(もち)による富の創造が語られ、さらに憤(ふん)怒(ぬ)の犠牲となって焼き捨てられた臼の灰を枯れ木にまくことで、天地一新の花咲く春が来る。これら一連のエピソードには、現象への執着を放つ捨徳と〝ムスビの働き〟による新価値の創造とが巧みに織り込まれている。

 生命は、死を越えて雄渾(ゆうこん)なる無限生長を続ける。これが生長の家の〝久遠生き通し〟の真理である。死や挫折や失敗があるように見えるのは現象の相(すがた)であり、いつまでもこれに捉われていてはならない。信仰者の〝心の眼〟は常に現象無明の雲を突き抜けて、生成躍如たる光り輝く実相の大地を観て歩むのである。唯心所現、実相のみを見つめるのが日時計主義の生き方である。悪しき現象は過去の迷いが消えてゆく相であり、それは住吉大神の宇宙浄化の御働きである。〝今ここ〟から、実相世界の新価値はいつでも、どんな状況からでも芽吹き花咲くのである。

「倫理的生活」とは、人間神の子の神性を自覚した生き方であり、それは利己主義(争い、嫉妬、羨望、憤怒、憎悪、焦燥、貪欲、虚飾)という〝業〟に支配された生活とは根本的に異なるのだ。前者は天地一切のものと大道をあゆむ生活であり、後者は現象に支配された奴隷状態である。生長の家にとって〝枯れ木に花を咲かせる〟のは、遠い昔のお伽(とぎ)話ではない。来し方を振り返り、これまで、どれだけ花を咲かせていただいたことか思い出すがよい。浄土は、空から降り注ぐのではなく、感謝するその足元から滾々(こんこん)と湧出するのだ。 
(二〇一八・四)

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