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2021年3月 1日 (月)

“文明転換”のとき (2021,3)

「建国記念の日祝賀式」に高崎の生長の家群馬県教化部から参列して、式辞を教化部から配信させていただいた帰路、家内と榛名(はるな)神社に初めてお詣りした。参道には奇岩列石が連なり、ゴウゴウと風の鳴る巨木の谷間を歩いていると、自然の中に神を観た古代の人たちの心が、時を超えて語りかけてくるのを感じた。

 そこには、数億年という自然界の途轍(とてつ)もない歳月が、あらわな岩石のすがたでさらけ出されていたのであるが、日常とかけ離れた峨々たる景観は、この神域が、軽はずみに仕出かすであろう人類の〝開発〟という名の破壊から、結界によって護られてきたことを伝えていた。

 参拝後、榛名湖まで足を伸ばすと湖面の全域が凍結し、吹く風は地吹雪のように粉雪を舞い上げていた。湖上に榛名富士が聳える光景を見たとき、五十数年前に初めて父に連れられて来たときの記憶が蘇ってきた。当時小学生だった私は、伊香保温泉が榛名湖畔にあって宿泊したと思いこんでいたが、甘酒を飲みに立ち寄った茶店のおかみさんに聴くと、「伊香保はここから二〇分ほど離れた場所だ」と教えてくれた。十代に満たぬ子どもの脳裏は、山と湖の神秘な光景に圧倒され、そのことで意識がすっかり覆い尽くされていたのだろう。

 子どもの柔軟な心は、自然界と容易に溶け合い、そして響き合う。そんな彼らの意識の深層は、生涯にわたって蓄えられる記憶の土壌となり、五官六感に触れるあらゆる情報を豊かに吸収して精神の基礎を形成する。近年は親の意向で習い事や学習塾などを掛け持ちして能力開発に余念がないが、長い目でみれば〝自然〟に繰り返し触れることこそが子どもの神性を伸ばすカギとなり、自在な発想や意表を突くアイディアもその経験から生まれるのだ。自然と出合った幼い魂は、眼前に広がる多様性に満ちた世界に誘(いざな)われて、未知なるものや、神秘なるものへの探求を、自らスタートするのである。

 将来ある若い世代が、心の病に陥るのは、自然と心を通わす機会が少なすぎたことも理由の一つであろう。朝の陽光や小鳥の囀りに心を傾け、夕焼けの荘厳や微妙な色彩の移ろいを愛で、雨の恵みに季節の変化を感じ、生かされている歓びを豊かに味わう生活を、どこかに置き忘れてきたのが現代の文明の姿である。多くの大人たちがが目の前の利害損得に振り回されて、人間社会を巧みに生きぬくことのみに躍起になってきたのだ。

 そんなことより、何万倍も大切なことがある。その一つは、時の谷間に埋もれていた自然と深く繋がる生き方を〝今ここ〟に蘇らせることである。それは、この世界を深く豊かに味わい生きるための智慧や技術や伝統を復活させ、さらにグローバルな新価値を加えて〝文明転換〟を図ることである。無垢な魂たちの行く先は、文明の袋小路などではない。森や、悠(はる)かな過去や、自然の中に帰ることから、すべてのものが新生するのだ。

 (生長の家埼玉教区・群馬教区の機関紙から)

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