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2021年4月 1日 (木)

時間は神のいのちである (2021,4)

「一月往(い)ぬる二月逃げる三月去る」といわれているが、駆け抜けるような早春の時間感覚は、私たちのいのちの営みと深く連動しているように思えてならない。それは、真冬から晩春にかけて咲く花や、大地に芽吹いた自然の変化が、思いのほか深く心に刻まれ、それが生活のリズムとなり糧となって暦(こよみ)を駆け足で運んでいるではないだろうか。静まりかえった極寒にあらわれる春の微かな兆しに、自然との絆が響き合い、咲く花とともに人のいのちも開き、花爛漫の時の中にいつしか自然と一つに溶け合うのである。

 時間は不思議である。あり余って見えるときには実に詰まらぬ消費をするものだが、わずかしか持ち合わせがないときには、これまた驚くような密度をもって生きられ、そこに豊穣な実りをもたらすことは皆さんもご経験されていることだろう。だから、どんなときでも〝忙しい〟ことを心から祝福し感謝しよう。その 忙しさこそが神からの最大の恩寵(おんちょう)であり、その“多忙”と見える時こそが、私たちの人生における最良の時間なのである。

 時間は、何かに夢中になっているときには矢のように過ぎ去る。しかし齢(よわい)を重ねてみると、私たちが深い悦びと満足感をもって夢中になった時を持ちえたことは、人生の“黄金の時間”だったことに気付くのである。

 成長期には流行や欲望を追求することも糧となる場合もあるが、ある時期からこの世における逃れ難い借財が、背後からひたりひたりと返済を迫ってくるのである。それは数多(あまた)のご先祖から受けたご恩、先達や恩師から托された想い、天地の万物から頂いた恵み、それらすべてが潮が満ちてくるように、共に他のために尽くし、身を捧げ尽くして生きることを迫ってくるのだ。真の菩薩行は、すでに恵みの真(まっ)ただ中に生かされていることに気付いたところから始まるのである。

 来し方を顧みると、人生には神の摂理(せつり)というものがあり、わたしたちはそれに導かれて今ここに生きていることに気付くのである。摂理に感謝して努力する者は運命から愛され、己が運命を誰かの責任にして他を憎み赦(ゆる)さぬ者は、いつまでもその桎梏(しっこく)から逃れることはできない。問題となるのは、その〝負の〟心の習慣が、罪のない子々孫々にまで受け継がれることである。「陰徳」というコトバがあるが、これは摂理に感謝し、天地の万物に感謝する〝善き心の習慣”のことであり、一切は吾が責任であり、〝絶対感謝〟の生活に徹することから道が開けてくるのである。

 私たちの頭の中では、なにが最善の選択で、何がそうでないかは分からない。しかし、摂理や運命を愛する者には、すべての出来事が「絶対善の世界」へと運んで行くのだ。見えない摂理の慈手を、損得勘定によって取捨選択していたのでは、どれほど巧みに立ち回ってみても「運命」から愛される機は訪れない。すべての出来事は観世音菩薩の導きであり、摂理の手は愛と慈悲に満ちており、それがこの人生であり世界であることに気付いたとき、それは十善の恵みとなって眼前に満ちて来るのである。

 (生長の家埼玉教区・群馬教区の機関紙から)

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