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2021年5月 1日 (土)

啐啄(そったく)の機について (2021,5)

 野に春陽を告げるヒバリの囀(さえず)りに呼応して、花が咲き、草木が生い茂り、人も衣替えの時節である。

 禅宗に「啐啄(そつたく)同時」という言葉がある。啐(そつ)はひな鳥が内側から卵の殻を突(つつ)くこと、啄(たく)は親鳥が外から突くことで、これが同時に行われることをいう。

「完成(ななつ)の燈台の神示」に、「時が来た。今すべての病人は起つことが出来るのである」と説かれているが、この「時が来た」とは、啐啄(そつたく)の機が到来して内と外が一つに動くことである。

 外ばかり見ていたのでは現象に振り回される。

 一方、内ばかり見ていたのでは永遠に殻(から)の中である。啐啄同時とは、内と外が“ひとつ”になっていのちが鳴り響くことであり、それは自他一如の世界に入ることである。これを生長の家では如意自在の生活といい、龍宮無限供給ともいう。

 私たちの心境がこの境地に入る修行(レツスン)が日々の神想観である。

 たとえば私たちの体内の心臓や、肺や胃や膀胱(ぼうこう)など内蔵の働きも、すべてこれ意識せずとも啐啄同時に全体が働いていることは、決して“当たり前”なことではないのだ。

 それはアイコンタクトどころの話ではなく、見えず聞こえず五官で感じなくとも、いのちは全体を把握して大調和裡(り)にすべてを生かし調和せしめているのである。この不思議な神秘な力に委ねることが全托である。

 宇宙大生命は、大きくは宇宙や星雲の運行から、小さくは素粒子の運動に至るまで、いのちの霊妙な働きとして統轄(とうかつ)し給うのである。この天地に遍満する働きは、私たちの人生に観世音菩薩の慈手となって随所に現れる。

 たとえば、四苦といわれる生老病死は、避けようもなく私たちの人生に巡り来るように見える。しかし不要な経験などこの世にはなく、全ては不思議な摂理の慈手によって巡り来るのであり、それぞれの出来事は最も善い時節に現れるのが唯心所現の世界である。

 その摂理の手を無視して、“自我”に振り回され他を犠牲にして、利己的な都合の良いことばかり得ようとしてもだめである。

 受けるべきものは受け、耐えるべきときに耐え、倒れるときには倒れても、神の子は、そこから何度でも起ち上がることができるのだ。

 そこから一歩ずつ“善きこと”を、一つまた一つと、実行していく。その日々の善行と連動して真理の火がまた一つ灯され、“自我”が剥落(はくらく)するにしたがって天地一切の“善きこと”がめぐり来るのである。

 過去の業や因縁を浄化する道は、神のいのちの世界に幼子のように飛び込むことである。これを大懺悔(ざんげ)といい、その過程で、過去生の業因が波のように自壊してきたとしても、その度に何度でも起ち上がればよいのだ。

 やがて霧が晴れて、必ず光明が差し初(そ)める。その光源は、どこか他の所にあるのではなく、あなたを無条件に生かしている、ささやかに見えるその光こそが、神の愛の光りだったことに気付くのである。

 私たちに灯された光り、それは人間神の子の証であり、「罪と病と死との三暗黒」を消尽する光りなのである。

  (二〇二一・五)

 

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