「すべてを担う」ことから (2021,7)
川越に引っ越して二年目の夏を迎えている。
なにを隠そう昨年は、群馬と埼玉での掛け持ちの日々が始まり、春に植えたキュウリもゴーヤもルッコラも、気がつけば伸び放題のトマトの枝と雑草に覆(おお)われ、畑は鳥や虫たちの楽園と化していた。
ナスやゴーヤを収穫するため茂みに分け入ると、ヤブ蚊が襲来する野生の王国が出現していたのだ。
そして今春、決意も新たに心も入れ替え、キュウリネットを張り、夏野菜の苗を植え、誌友から頂いた大豆も畑に蒔いた。
そんな折、ネットフォーラムに参加していた方が「畑から元気を頂いている」と発表されていたが、畑の世話をすることで、潜在していた思考回路や肉体の機能が豊かに働き始めるのであろう。
畑で浮かんだ農作のアイディアを一つ一つ形にしていくと、いつしか自然と自分とが溶け合い、意識が伸び広がり、心と肉体と畑がひとつに統合されて自在を得るようだ。
畑という小宇宙は、自然と人間とがムスビ合うための“場”でもあるのだ。
さて「全托」とは、神に委ねることと教えられているが、それは“めんどくさい”問題を避けて通ることではない。
まずその問題を、自分でしっかり担わなければ、神に委ねることなど出来ないのである。
課題や問題を自ら背負い、引き受けて初めて、その重要さ、複雑さ、入り組んだ構造が細部にわたり見えて来るのだ。その詳細が把握できた分だけ、解決への道が開けるのである。
だから神への「全托」とは、課題から逃げることでも避けて通ることでもなく、その課題を“観世音菩薩の声”として向き合い、総身で受け止めることであり、そこから初めて“全托の祈り”が始まるのだ。
この「すべてを担う」ことを生長の家では、「自己を一切者とする自覚」と呼んでいる。ここに立つことで、ついに紛糾していた難題が溶け始め、そこから新たな天地が開け、新価値が生まれるのである。
畑はスケッチの作業とよく似ている。自宅のある青梅市の庭でも、かれこれ二十年ほど生ゴミとEM菌を利用した無農薬栽培を試みてきたが、プランを描き、畑に出てささやかな経験と感覚に委ねた試行錯誤の手作業がはじまり、そこにアマチュア農園ならではの実験や悦びや失敗もあるのだが、失敗も大切な学習となるのがオーガニック菜園部ならではの楽しみでもある。
しかし、気軽に無農薬栽培に踏み込むことができないのが専業農家であろう。
『奇跡のリンゴ』の著者の木村秋(あき)則(のり)さんは、農薬を一切使わないリンゴの自然栽培に取り組んだ当初、五年ほどバイトの掛け持ちで家族を養っていたというから身命を賭しての実験だったようだ。
同氏によると、自宅用に種から栽培する野菜も稲作も、無農薬で豊かに収穫できたが、農薬に慣らされたリンゴで成功させるには、弛(たゆ)まぬ工夫と長い時間を要したという。
これは薬剤に慣らされた私たちの身心や、浅薄な情報に慣れ親しんだ心が、深い真理を学ぶ場合も同様かもしれない。
実相が現象に現れるには、辛抱して「待つ」時期が必要であり、その待ち時間は浄めのときであり“魂が新生する”ときでもあるのだ。
(二〇二一・七)
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