生命の舞台 (2021,9)
八月のお盆に「奉納 八木節ネットフォーラム」を群馬県教化部で開催して、唄と笛、太鼓、鼓(つづみ)、鉦(かね)の生演奏と踊りをリモートで配信させていただいた。
これは亡き人々への供養であると同時に神界・天界・霊界という不可視の世界への捧げ物であり感謝の行事である。
何に感謝するのかといえば、天地一切のものが神のいのちであることを拝み、そのいのちの光りが、私たちの日々のなりわいに、それぞれが授けられたお勤めの一つひとつに、家族や友人知人との語らいの中に、静かに輝き渡り、世界を内側から照らしていることを拝むのである。
盆踊りの前日、埼玉県教化部から『正法眼蔵を読む』をテキストに「真理勉強会」を配信したが、会場に参加していた四十代の男性から、道元禅師が説いた「仏向上(ぶっこうじょう)」という言葉の意味についての質問をいただいた。
仏向上とは、悟りを越えて無限生長する生命の姿である。
なぜ生命は「悟り」をも越えるのかと云えば、悟りと見えるのは生命の一時的な過程であり、生命そのものは無限生長を純粋に持続して絶えず新生し、よみがえり、新価値を湧出する“いきもの”だからである。
谷口清超先生は同書で、「仏を越えて無限に向上する境涯が展開される」(弁道話)とお説きくださっている。
「仏を越える」とは、仏と現れ、神と現れ、菩薩として現れたもの、あるいは悟りを得て仏となり、神となり、菩薩の境涯に至ったとしても、それは真実存在(生命の実相)の一時的な相(すがた)であって、そのような現象に安住し留まっていたのでは、そこは天人五衰(てんにんごすい)の境涯にすぎないことを伝えているのだ。
私たちの生命は、日々の小さな“悟り”を重ねて生長する。
白隠禅師は「大悟十八回、小悟数知れず」と語ったが、昆虫が脱皮を繰り返して生長するように、日々の悟りは日々の生長の姿であり、三正行やPBS活動の光りを放ちながら、生命は豊かに伸びゆくのである。
日時計主義とは、日々の発見(小さければ小さいほど善い)に光を当てる生き方である。
それは神の顕れである真・善・美に“気づく”ことであり、“気づか”なければそこに何も見いだすことはできないが“気づき”さえすれば、今ここは紛(まご)うことなき天国であり、浄土であることが発見できるのだ。
そのための鍵言葉(キーワード)が「感謝」である。感謝は「今」を深く観透(みとお)す心眼であると同時に、「今」を掛け替えのない、いのちの舞台として観る慈悲の眼でもある。
世の中に過ぎ去らないものなどなく、時は留まることなく展開してゆくように見える。
二度と繰り返すことのない世界を前に、私たちは、今できる精一杯のことをさせていただき生きる。
それが、やがて滅するであろう行為や事業であったとしても、私たちはそこに神の生命を刻むのだ。
それがPBSの倫理的生活であり、次世代や大自然のことに想い巡らせる深切行であり、大調和の世界を一歩一歩実現する菩薩行である。
(二〇二一・九)
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