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2021年8月24日 (火)

生命の舞台 (2021,9)

  八月のお盆に「奉納八木節ネットフォーラム」を群馬県教化部で開催して、唄と笛、太鼓、鼓、鉦(カネ)の生演奏と踊りをリモート配信させていただいた。これは亡き人々への供養であると同時に神界・霊界という不可視の世界への捧げ物であり感謝でもある。何に感謝するのかといえば、宇宙すべてのもの、天地一切のものが神のいのちのさきはえとして歓びの光明を放ち給う、そのことへの礼拝であり感謝である。その神の光りは、私たちの日々のなりわいに、それぞれが授けられたお勤めの一つひとつに、家族や友人・知人との語らいの中に静かに輝き渡り、世界を内側から照らしているのである。

 盆踊りの前日、埼玉県教化部から『正法眼蔵を読む』をテキストに「真理勉強会」を配信したが、参加していた四十代の男性から、道元禅師が説いた「仏向上」についての質問をいただいた。仏向上とは、悟りを越えて無限生長する生命の姿である。なぜ生命は「悟り」をも越えるのかと云えば、悟りは生命の一時的な状態であり、生命そのものは無限生長を持続して絶えず新生し、よみがえり、新価値を生み出す〝いきもの〟だからである。

 谷口清超先生は同書で、「仏を越えて無限に向上する境涯が展開される」(弁道話)とお説きくださっている。「仏を越える」とは、仏と現れ、神と現れ、菩薩として現れたもの、あるいは悟りを得て仏となり、神となり、菩薩の境涯に至ったとしても、それは真実存在(生命の実相)の一時的な相(すがた)であって、そのような現象に安住し留まっていたのでは、そこは天人五衰の境涯にすぎないことを伝えているのだ。

 私たちの生命は、日々の小さな〝悟り〟を土台に生長する。白隠禅師は「大悟十八回、小悟数知れず」と語ったが、昆虫が脱皮を繰り返して生長するように、日々の悟りは日々の生長であり、三正行やPBS活動の光りを放ちながら、生命は豊かに伸びゆくのである。

 日時計主義とは、日々の発見(小さければ小さいほど善い)に光を当てる生き方である。それは〝気づき〟ということであり、〝気づか〟なければそこに何も見いだすことはできず〝気づき〟さえすれば、今ここは紛(まご)うことなき天国である、と思われる要素はいっぱい発見できるのだ。そのための鍵言葉が「感謝」である。感謝は、「今」を観て味わう眼であると同時に、「今」を掛け替えのないいのちの舞台として観る眼でもある。

 世の中に過ぎ去らないものなどなく、時は留まることなく展開してゆく。二度と繰り返すことのない掛け替えのなさを前に私たちは、今できる精一杯のことをして生きる。それが、やがて滅するであろう行為や作業であったとしても、私たちは繰り返しそこに生命を刻まずにはいられない。それがPBSの活動であり、次世代のことを想い〝倫理的に生きる〟ということである。その生命の舞台として神はこの宇宙を、地球を創造し給い、全てを人間に托された。それが全責任を担う〝一切者〟としての「人間・神の子」という言葉の真意である。

 

 (生長の家埼玉教区・群馬教区の機関紙から一部転載)

 

 

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