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2021年12月30日 (木)

一隅を射照らす (2022,1)

 ある朝ふと、『常楽への道』(吉田國太郎著 日本教文社)を開くと、「行き詰まりというものは人間知が行き詰まるのであって神は行き詰まらない」との言葉が目に飛び込んできた。

 読み進めると、生長の家では「八方塞がりでも天は空いている」と念を押すように書かれていた。

 これは、私たちの内にある無礙自在な神の智慧が開けば、尽十方(あらゆる方面)に道が開くことを伝えているのだ。

 以前、ある友人が「神さまを信仰しているのに、理由もなく心が“暗黒面”に引き寄せられる」と、言い知れぬ苦悩について語ってくれたことがある。

 多くの方は、自身の“心の傾向”のことなど気にも留めずに生活しているかもしれないが、私たちが過去の辛い出来事に縛られ、自分を責め続けていると、最初はわずかと見ていたその心の痛みが次第に積乱雲のように集積され、やがて周りの人との対立や事故や病気などの「行き詰まり」のような姿で現れる場合がある。

 しかし、「行き詰まる」ことで人は初めて自身の“心の障壁”に気付き、宗教の門を叩くのである。

 そこで先達に導かれて祈り、求道し、愛を行じはじめるのであるが、素直に人生の光明面を見る「日時計主義」の生活を続ける者は、再び行き詰まったとしも、その度に自らを省みる好機として、次にどんな患難がやって来てもそれを光に変えることだろう。

 そして、どのような渦中にあっても“天の扉”がいつでも空いていることを覚るのである。

 一方、自分の都合を中心に生きて、いろいろ理屈をつけて狎れ親しんだ生き方に執着していたのでは、いつまでも同じ“自我”の障壁が「八方塞がり」となって周囲に現れ、無い過去に苛(さいな)まれるのである。

 一切を打開する道は“自我中心”から、“神を中心にした信仰”へと切り替えることである。

 あなたがもし、神の子の自覚がなかなか深まらないとしたならば、それは“小さな自我”を殺し終えていないからである。「常に自我を死に切るべし」との「信徒行持要目」の言葉は、利己的な信仰への鉄槌であり、肉体人間の自覚を徹底的に葬(ほうむ)り去るための“無の門関”でもある。

 私たちは人生で、多少なりとも地位や名声を得て、自らの人生を無事に全うできるように見えたとしても、もし心の隙間に啾々(しゅうしゅう)とした虚ろな風が吹いていたとしたら、それは自我だけが納得しているのであって、内なる神のいのちは決して納得していないのである。

 自我を死に切り、随所で主(神の子)となり、家庭で、職場で、組織で、あらゆる機会に、日時計主義の生活を実践していれば、どれほど深く安らかな充足感に満たされることだろう。

 気付いたときが、出発の時である。いつでも天が空いており、「今」が神の子の進一歩を進めるときである。

 そこに起ち上がるのはもはや自我ではない。その一歩一歩に仏の四無量心が起ち、神のいのちが起つのである。

 そこからが「神の子・人間」への“新生の時”である。

 それは「小さな自我」が歓ぶ境涯ではなく、天地一切の動植物や人と心を通わせ、神と共に歩む悦びの生活がそこから始まるのである。

 そして愛と慈悲を灯したその光は、間違いなくあなたの往く道を照らすだろう。 (二〇二二・一)

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2021年12月 6日 (月)

聖使命のこと (2021,12)

 十一月、埼玉・群馬のペア教区で「聖使命研修ネットフォーラム」を開催した。

 生長の家では、人間は神の子であり、その実相(ほんとうのすがた)は円満完全な宇宙大生命で、智慧と愛と生命とに満ちていると教えていただいている。

 聖使命とは“聖なる”使命のことである。それは無限ともいえる神の智慧と愛と生命を生きて、この世界を光明化する使命のことである。

『生命の實相』第一巻の「實相篇」には、「自性円満を自覚すれば大生命の癒力(なおすちから)が働いてメタフィジカル・ヒーリング(神癒)となります」と説かれている。

「自性円満」という言葉には「そのままで円満なこと」との注釈が添えられている。そのままとは「はじめから」ということで、それは、「神の子」に成るために長い時間をかけて精進努力した後にそこに達するのではなく、そのままで自性(実相)は完全円満であり、ハイッとそれを受けて三正行に励んでいれば、本来の実相が顕れてくるのである。

 かれこれ四十年ほど前のこと、宇治練成会で「聖使命」の講話を担当していた講師が、
「皆さん、そのまま円満完全な神の子であり光りですよ! その実相を悦びたくない人は、ぜったいに聖使命会に入ってはいけませんよッ!」

 と、一見冗談か、と思われるような真実を突いた話をされていたが、講話の後、初めて練成に参加したと思われる人たちが続々と聖使命に入会されていたことを思い出すのである。

 今回の聖使命研修では、冒頭で埼玉教区相愛会の冨田敏夫会長が挨拶され、『到彼岸の神示』(谷口雅春著)の一節を引用して、「神さまの教えをひろめるためには“純粋な献身”が要求される」ことを紹介されていた。

 続いて三名の方が体験発表をされたが、彼らに共通していたことは、幼な児の信仰と純粋な献身だった。

 生長の家の運動は数知れぬ先達の“純粋な献身”のおかげで、私たちの元に人間・神の子の“真理の火”が届けられたのである。その光りに照らされて、人生の桎梏(しっこく)と見えていた人間苦、経済苦、病苦から解放されたのだ。

 そこに点ぜられた「火」とは、「自性円満」の真理の自覚であり、そこから生じた喜びが、人類光明化運動・国際平和信仰運動となって地上に溢れているのである。

『新版 真理』悟入篇には、聖使命菩薩について「すべての人を救いとろうと、いとも広大なる救いの手を拡げられた(中略)、観世音菩薩の千本の手の一本一本が衆生済度の聖使命を感得された皆さんであります」と説かれている。

 聖使命に入会するとは、先達の言葉を借りれば、「そのまま円満完全な神の子であり光りですよ!」と、その実相を悦び生きることに他ならないのである。それは同時に、神の無限供給の扉を開くことでもあるのだ。

 それを開く鍵は、はじめから私たちの内にあり、この世に持参して生まれた“如意宝珠”という「いのち」の中に秘められているのである。

「聖使命」とは、神の子の使命である“菩薩行”を随所で行じて、人生を光明化することであり、そのカギが潮干の珠(現象無し)と、潮満の珠(唯神実相)のコトバの力である。

 聖使命菩薩(皆さん)の生きて歩むところ、そこに必ず浄土が湧出するのである。

 (二〇二一・十二)

 

 

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