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2022年2月 1日 (火)

自性円満を悦ぶこと (2022,2)

 今から四十年ほど前の話だが、私が宇治別格本山で研修生をしていたとき、一緒に修行していた仲間の間で、『無門関解釈』(谷口雅春先生著)の公案の一節、「倶胝堅指(ぐていじゅし)」について語り合ったことがある。この内容は、み教えを生活に生かす宗教的な智慧を提供していると思われるので、想い出すままに綴ってみたい。

 唐代の禅僧、倶胝(ぐてい)和尚は求道者に教えを請われると、いつも指を一本竪(た)てて仏性を示していた。和尚が不在の時、弟子の小僧は訪問者から「お前の師匠はどんなことを説かれるのか?」と問われると、師の形を真似して指を一本立てていたという。それを聞いた和尚は、小僧を呼び止め「仏性」を問うと、小僧はすかさず指を竪てて示した。すると和尚は、小僧を捕まえてハサミで指をちょん切ってしまったという。痛さと怖さで逃げる小僧に、和尚は「小僧待て!」と呼び止めると、間髪を入れず、すっと指を一本竪てて示した。それを見た瞬間、小僧は深い悟りを得たという。

 さて、研修生たちの結論は、和尚の竪(た)てた指は、「無原因にして竪つ指だ」ということだった。それは形に依(よ)らず、因縁によらず、現象的な諸条件に依らずに竪つ仏性のことである。カタチや方法や知識など、真似ごとだけの真理では、肝心の指を切られたら小僧のように竪てるモノがなくなる。これはちょうど、生長の家の教えのことは「頭では分かって」いるが、実際問題に当たると、手も足も出なくなるのと同じである。

 たとえば、自身やご家族の誰かが、病気や引き籠もりで悩み苦しんでいるとき、習い覚えた知識や方法を、あの手この手と駆使しても一向に解決に至らず、途方に暮れた方もいらっしゃることだろう。それは教えが悪いのではなく、み教えに照らしてみれば、もっと実相を観て〝悦びなさい!〟ということなのである。つまり悦び方が足りないのである。

 そのころ、宇治別格本山で総務をされていた藤原敏之講師は、「現象がどんな最悪な状況にあったとしても実相を悦べるのが生長の家の信仰だ」と語っていた。それは、肉体や環境が整ったり崩れたり、願いが成就したり自壊したりする現象の上に建てられた〝おかげ信仰〟ではダメだ、ということである。「実相を悦ぶ」とは、久遠生き通しの実相を把握して一つに鳴り響いて生きることである。その深い悦びは、人間を物質と見、肉体と見ていたこれまでのおかげ信仰を、神の子・人間の荘厳な自覚へと一変させることだろう。

 生長の家は、「自性円満」の教えである。「自性」とは、そのままである。物質人間がこの世に生まれたと見る唯物思想では、この「自性」を理解することは出来ない。「自性円満」とは、宇宙大生命そのものがそこに顕れた、ということである。その大生命は円満完全なる神である。その自性を悦ぶのが生長の家の信仰であり、その悦びの光りは、全てのものを癒やし、全ての願いを成就するのである。

 

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