自性円満を悦ぶこと (2022,2)
今から四十年ほど前の話だが、私が宇治別格本山で研修生をしていたとき、一緒に修行していた仲間たちの間で、『無門関解釈』(谷口雅春先生著)の公案の一節、「倶胝堅指(ぐていじゅし)」について語り合ったことがある。
この内容は、み教えを生活に生かすための智慧を提供しているので、想い出すままに綴ってみたい。
唐代の禅僧、倶胝(ぐてい)和尚は求道者に教えを請われると、いつも指を一本竪(た)てて仏性を示していた。
和尚が不在の時、弟子の小僧は訪問者から「お前の師匠は、いつもどんなことを説かれているのか?」と問われると、師の形だけを真似して、指を一本立てていたという。
それを聞いた和尚は、小僧を呼び止め「仏性」を問うと、小僧はすかさず指を竪てて示した。すると和尚は、小僧を捕まえてハサミで指をちょん切ってしまったという。
痛さと怖さで逃げる小僧に、和尚は「小僧待て!」と呼び止めると、間髪を入れず、すっと指を一本竪てて示した。
それを見た瞬間、小僧は深い悟りを得たのだそうだ。
さて、研修生たちの結論は、和尚の竪(た)てた指は、「無原因にして竪つ指だ」ということだった。
それは形に依(よ)らず、因縁によらず、現象的な諸条件に依らずに竪つ仏性のことである。カタチや方法や知識など、真似ごとだけの真理では、肝心の指を切られたら小僧のように竪てるモノがなくなる。
これはちょうど、生長の家の教えのことは「頭では分かって」いるが、実際問題に当たると、手も足も出なくなるのと同じである。
たとえば、自身やご家族の誰かが、病気や引き籠もりで悩み苦しんでいるとき、習い覚えた知識や方法を、あの手この手と駆使してみても一向に解決に至らず、途方に暮れた経験のある方もいらっしゃることだろう。
それは教えが悪いのではなく、み教えに照らしてみれば、自性円満の実相を観て“青天井に悦ぶ”ことが必要であり、そこから道がひらけてくるのだ。つまり悦び方が足りないのである。
そのころ宇治別格本山で総務をされていた藤原敏之講師は、
「現象がどんな最悪な状況にあったとしても実相を悦べるのが生長の家だ」
と語っていた。
それは、肉体や環境が整ったり崩れたり、願いが成就したり自壊したりする現象の上に建てられた“おかげ信仰”ではダメだ、ということである。
「実相を悦ぶ」とは、神想観を実修して真実在と一つになって生きることであり、その深い悦びは、人間を物質と見、肉体と見ていたこれまでのおかげ信仰を、神の子・人間の荘厳な自覚へと一変させるのだ。
生長の家は、「自性円満」を悦ぶ教えである。
「自性」とは、そのままである。物質人間がこの世に生まれたと見る唯物思想では、この「自性」を把握することは出来ない。
「自性円満」とは、現象の背後に宇宙大生命の“真実在”を観て感謝することである。
その完全円満なる大生命が“真実在”の私であり“真実在”の彼であり“真実在”のあなたであり、その自性を悦ぶのが生長の家の信仰である。
その悦びは全てのものを癒やし、全ての願いを成就する“救いの光り”となるのだ。
(二〇二二・二)
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