紫陽花の咲くとき (2022,7)
十年ほど前の梅雨のこと。
紫陽花(あじさい)をスケッチしたとき、その構造が、まるで宇宙に浮かぶきら星のように、無数の細かな花や蕾みの集合だったことに初めて気がついた。
以来、紫陽花が咲く度に、花の天体は、種によって色や形そして星雲の形態まで微妙に異なることが見えてきた。そんな世界の不思議に触れる悦びは、神想観での宗教的な発見にも似ている。
コロナ禍で、誌友会などの対面行事が開催できない期間が二年以上続いたが、梅雨入りとともに群馬と埼玉の各地を巡る「教化部長講演会」をスタートした。
先ず群馬では桐生市、埼玉では上尾市と吉川市と越谷市を回らせていただいた。各会場では既にzoomで〝顔見知り〟の方もいらっしゃれば、まったくの初対面の方も半数以上いることに深い感慨を覚える。
すでに両教区に赴任して二年以上の時を経ていることを思えば、本来なら教区の各地を二巡ほど回り、三巡目に入っていたことだろう。
それでもコロナ禍の間、教区で出来る精一杯の活動として、インターネットを活用しての日々の神想観と講話、そして地方講師の皆さんによる体験談を倦(う)むことなく教化部から配信させていただいたが、感染症蔓延(まんえん)という初めての状況下で、果たしてどれだけの教化活動が出来るのか、日々が実践と試行錯誤の連続だった。
ともあれ対面行事が可能となった今は、従来型の誌友会などアナログ的な運動も復活させ、コロナ渦中で展開したデジタルの利点をも生かしながら、柔軟に活動を進めていく予定だ。
講演会と先祖供養祭では、講話の後で必ず質疑応答の時間を設けて皆さんとの対話を楽しみにしているが、ある会場で「世界平和の祈り」ニューバージョンについてのご質問を頂いた。
それは、「ロシアの人々のために祈るのは、生長の家ではない一般の人から見て誤解を招くのでは?」というもので、その趣旨をさらに聴いてみると、ロシアを〝排除すべき敵〟と見る世間の目に合わせるべきではないか、という配慮であることが判った。
ご存じのように、生長の家の運動の本源は大慈大悲の観世音菩薩である。
その大慈悲の展開である生長の家では、天下無敵を説き、敵と見える者の中に神や仏の円満な実相を拝むのである。
仏教の道元の言葉に「道心の中に衣食あり、衣食の中に道心なし」という言葉があるが、道心とはすべてを生かす仏心を生きること。
一方、衣食とは、世に蔓延した経済優先の生き方のこと。前者は感謝と和解の道であり、後者は競争と奪い合いと紛争へと通じる隘路(あいろ)である。
神さまから観れば、神の子に人種や民族の違いも無ければ、国の違いもない。世間がどのように見ようとも、慈悲喜捨の四無量心は微塵もゆらぐことなく天地を貫いて万物を生かすのである。
その大慈悲を生きることの中に、私たちの菩薩行があり、そこから衣食が、世界平和が、次世代への愛が満ちてくるのだ。
それは紫陽花が咲くように、多様性に富んだ〝新しい文明〟を花咲かせる運動である。
(二〇二二・七)
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