“ご縁”に感謝する (2022,10)
川越に住み始めて三度目の秋を迎えた。
借家の庭を開墾した畑では、春にはキュウリ、トマト、ナス、ゴーヤ、ピーマン、シシトウなどの野菜を栽培して、盛夏をすぎたら、いつも手つかずのまま日々の忙しさに紛れて放ったらかしていたのだ。が、今秋は心機一転、九月中旬に収穫後の残骸を片付け、冬に向けて白菜、ノラボウ、レタス、カリフラワー、キャベツなどの苗を植えてみた。
生長の家に、「一切の人に物に事に行き届くべし」という言葉がある。
「一切の人に物に事に」とは、私たちが日常の中で出合う〝ご縁〟のことだ。人との出会いも、物や事との出合いも、すべて偶然のようにも見える〝ご縁〟に導かれて進展してゆく。そのご縁に感謝し、人生の光明面に着目して喜んでいれば〝ムスビの働き〟によってそこから尽きることのない新価値が生まれてくる。
一方、自分の都合を優先して、惜しい欲しいと執着し、心が暗黒面に捉われていれば、どんな良縁も悪縁となって見えてくるのである。
生長の家は「天地一切のもの」との〝ご縁〟を神の現れとして拝み感謝する教えであり、天地の渾(すべ)てのものは観世音菩薩の現れであると教えていただいている。
仮にもし不完全な姿が周りに現れていれば、それは過去の迷いの想念が消える浄めの相(すがた)であり、相手の実相を拝んで感謝していれば万事は必ず好転するのである。
宗教学者の島薗進氏が、『愛国と信仰の構造』(集英社新書)という中島岳志氏との共著で、自然災害からの復興をめぐって印象深い言葉を語っていた。
それは、誰かをお世話させていただくときは、「相手が求めているものに応じて、即興的に発揮できるものを探していく。このこと自身が自分にとっても大きな学びになる」というもので〝ご縁〟を生かすことについての深い洞察が伝わってきた。
「相手が求めているものに応じて、即興的に発揮できるものを探していく」とは、私たちが、仏の四無量心や神の愛を行じさせていただくときの姿勢そのものと重なる。
それは、すべての〝ご縁〟を観世音菩薩のお導きとして受けとめ、今できることを精一杯させていただく慈悲の姿であり、私たちも多くの先達から、このような〝お世話〟を頂いたおかげで信仰生活へと導かれ、人間・神の子の真理に目覚めたのである。
仏の四無量心は、同時に神の無償の愛でもあるのだが、それに生かされていることに気づいたとき、私たちは「人間・神の子」に目ざめて新生するのだ。
その生かされて生きる悦びが、ご縁ある全ての人や物を活かすクラフトとなり、家族を活かすエシカルな料理となり、大地や植物や人を活かす家庭菜園となり、これらのPBSの諸活動が、私たち一人ひとりに托された人生の一隅を照らすのである。
(二〇二二・一〇)
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