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2022年11月26日 (土)

“声なき声”を聴く (2022,12)

 親鸞(しんらん)の言行を記した『歎異抄(たんにしょう)』の中に、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という文言がある。この言葉は、悪人や罪人こそ、まさしく阿弥陀仏(尽十方無礙光如来の大慈悲)に救われるべき対象だ、という意味である。人生を渡るなかで、自身で担い切ることのできない大きな罪業に苛(さいな)まれた者にとって、この言葉は地獄の桎梏(しっこく)から救われるような光明をもたらしたことだろう。


 生長の家の「観世音菩薩を称うる祈り」の中に、「観世音菩薩は、私たちの周囲の人々の姿となって私たちに真理の説法を常になし給うのである」と記されている。人生を顧みて、たとえば物事が思い通りに運ばなかったり、不如意な事が起こっているように見えたならば、それは周囲や自身が発している”声なき声”に、心の耳を傾けていなかったことの裏返しだったのかもしれない。


「心の法則」について説かれたこの祈りの言葉の背後には、人間の実相は“宇宙大生命”と一体であり、全ての生きとし生けるものと繋がっているという宗教的な世界観がある。では観世音菩薩は、私たちの「周囲の人々の姿」となって、いったいなにを語り続けているのだろうか。これは不思議なことだが、私たちがこの”声”に耳傾けることで、これまで膠着(こうちゃく)していた問題や、立ちすくむほかなかった難題を解決するための鍵が、意外なところから回り始めるのを多くの人が経験している。


“聴く”という受動的なことが、諸問題を解決する鍵となるのは、これまで顧みなかったものたちの”声なき声”を通して、私たちの心が天地一切のものと向き合い”いのちの繋がり”という大切な真実に目覚めるからである。これまで人生の難題を解決するために、私たちが懸命に努め励んでも一向に解決の道が開けない場合があったのは、それは”声”を聴くことのない一方的なアプローチだったからではないだろうか。


 観世音菩薩の説法に耳傾けるとは、神想観を実修して、宇宙大生命に、問題も不安も疑念も悩みも苦しみも悲しみも願いもすべて委(ゆだ)ね切って、大安心の気持ちで全托して祈ることである。一休禅師は、「闇の夜に鳴かぬ鴉(からす)の声きけば 生まれぬ先の父ぞ恋しき」と詠んだが、闇の夜の扉をひらく唯一の鍵は、大安心の全托の中から生じる”無条件の感謝”である。その大安心の感謝の中に、観世音菩薩の慈悲喜捨が語りはじめるのだ。「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という親鸞の言葉は、この全托の中から聴こえてきた、観世音菩薩が衆生の苦悩を照らし給う大慈悲の光りなのである。


 観世音菩薩は、常に真理の説法を語り給うている。私たちは、周りで語り続けるいと小さき者たちの”声なき声”に耳傾けることから、漆黒(しっこく)の闇の夜に智慧の光りを灯すことができるのだ。声なき声を”聴く”ことで、悪人と見えていた不完全な現象が消え去り、そこに一切衆生の実相を根底から蘇がえらす仏のいのちが復活するのである。

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2022年11月 1日 (火)

“ご恩”について (2022,11)

 コロナがいったん収束したおかげで、各地で講演会などの諸行事を開催できるようになった。教区に赴任して数年を経たが、いずれの会場も半数ほどは初対面の方ばかりである。巡講させていただいてありがたいことは、新たな“ご縁”を通して亡き恩師たちへのご恩返しの幾分かを果たせることだ。私たちが信仰の世界に入ったのは、知人の影響かもしれないし、家族の助言だったかもしれないが、ここに至るまでに、どれほど多くの人たちの“愛念”と祈りによって生かされてきたことだろう。


 私もその一人だが、親しい方から頂いたご恩のことは“当たり前のこと”と思って忘れてしまうのであるが、それは水や空気のように自然で、自己主張をしない“無償の愛”だからである。しかし、これほど私たちを根底から生かし、私を私ならしめてくれたものはないのだ。


 多くの人は、現在の地位や能力を“自分の努力のたまもの”ぐらいに思っているのであるが、自分に才能や能力を授け、学ぶ機会を提供し、食べ物や住む場所を用意してくれた無数の人たちのことは念頭から消えていることが多い。家族であれ、恩師や友人であれ、もし、その人との出会いがなければ、別の人生を歩んでいたであろうし、もしかしたらどこかで野垂れ死にしていたかもしれない。


 実りの秋の時節に、あらためてこの“ご恩”を顧みることも決して無駄ではあるまい。たとえば、もし皆さんの身近な誰かが、これまで注いだ愛情のことを一向に顧みてくれないように見えるならば、それは私たち自身が、これまでお世話になり、導いてくださった方たちの愛念をちゃんと受け止め切れていないからであり、目先の利害損得に心奪われ、あらぬ方向ばかり見てきたからではないだろうか。『大調和の神示』に「顧みて和解せよ」と説かれているのは、かつて自分に注がれ、今はどこかに置き忘れてきたその所在も知れぬ“愛念”のことを想い出し、よくよく「脚下照顧」してみることを教えているのである。


“無償の愛”を注いでくれた方たちの“想い”は、私たちがその“掛け替えのなさ”に気づき感謝したとき、初めて成就する。つまり、隠れていた“ご恩”が日の目を見て輝き始めるのだ。そのとき私たちは、初めてその愛念を受けたときの自分に立ち帰り、そして、そのときと同じ目線に立って誰かをお世話し、導くためのコトバや智慧がここからひらけてくるのである。


 そのためには、先ず行動に移してみよう。先方は、もうすっかりお忘れになっているかもしれないが、ご存命であれば訪ねて行き、お礼と感謝の言葉をあらためて伝えることである。また、すでに故人となっているなど、逢えない事情があるのであれば、神想観の折に繰り返し想い出して、感謝の祈りをどこどこまでも捧げさせていただくことである。そこから、かつて自身に降り注いでいた慈悲の光りが、これからの往くべき道を煌々と照らしはじめることだろう。

 

 

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