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2022年11月 1日 (火)

“ご恩”について (2022,11)

 コロナがいったん収束したおかげで、各地で講演会などの諸行事を開催できるようになった。

 教区に赴任して数年を経たが、コロナ禍の影響でいずれの会場でも初めてお目にかかる方との出合いがある。巡講させていただいてありがたいことは、新たな〝ご縁〟を通して亡き恩師たちへのご恩返しの幾分かを果たせることだ。

 私たちが信仰の世界に入ったのは、知人の影響かもしれないし、家族の助言だったかもしれないが、ここに至るまでに、どれほど多くの人たちの〝愛念〟によって導かれ、支えられ、生かされてきたことだろう。


 私もそうだが、親しい方から頂いたご恩のことは〝当たり前のこと〟と思って忘れてしまいがちであるが、それは水や空気のように自然で、自己主張をしない〝無償の愛〟だからである。しかし、これほど私たちを根底から生かし、私を私ならしめてくれたものはないのだ。

 わたしを含め多くの人は、現在の地位や能力を〝自分の努力のたまもの〟のように思っているのであるが、自分に宿る才能や能力を開花させる機会を与え、食べる物や住む場所を用意してくださった恩人たちのことは、念頭から消えている。

 家族であれ、恩師や友人であれ、もし、その人との出会いがなければ、別の人生を歩んでいたであろうし、もしかしたらどこかで野垂れ死にしていたかもしれないのだ。

 秋の実りの時節に、あらためてこの〝ご恩〟を顧みることも決して無駄ではあるまい。

 たとえば、もし皆さんがお世話している身近な誰かが、これまで注いだ愛情のことを一向に顧みてくれないならば、それは私たち自身が、これまでお世話になった方たちの愛念を顧みていないからかもしれない。あるいは目先の利害損得にばかり心奪われてはいないだろうか。

『大調和の神示』に「顧みて和解せよ」と説かれているのは、かつて自分に注がれ、今はどこかに置き忘れてきた、その所在も知れぬ「愛念」のことを想い出し、よくよく「脚下照顧」して感謝することを教えているのである。


〝無償の愛〟を注いでくれた方たちの〝想い〟は、私たちがその〝掛け替えのなさ〟に気づいたとき、初めて日の目を見る。つまり、隠れていた〝ご恩〟が報われるのだ。そのとき私たちは、初めてそのご恩や愛念を受けたときの自分に立ち帰ることができる。そして、同じ目線から、誰かをお世話させていただくための智慧や言葉がひらけてくるのである。


 そのためには、先ず行動に移してみよう。

 ご恩を注いでくださった方は、もうすっかりお忘れになっているかもしれないが、ご存命であれば訪ねて行き、お礼と感謝の言葉をあらためて伝えることである。

 また、すでに故人となっているなど、逢えない事情があるのであれば、神想観の折に繰り返し想い出して、感謝の祈りをどこどこまでも捧げさせていただくことである。

 そこから、かつて自身に降り注いでいた同じ慈悲の光りが、あなたとご縁をいただいた人の往く道を、煌々と照らしはじめるのである。

 

(二〇二二・一一)

 

 

 

 

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