「対話(dialog)」について (2023,1)
生長の家との出合いは、私が中学生のときだった。
オカルトブームが到来していた昭和四十年代、深い関心をもって私が読んでいた神霊学や霊界関係の書籍を見た父が、「知り合いの息子で、宗教や神秘的な方面の研究をしている青年がいる。変わっているが獣医でもあり紳士だ」と、私の小中学校の先輩に当たる澤口さんという方を紹介してくれた。
興味を抱いた私は、その方面に関心のある同級生を連れて澤口さんのもとを訪ねると、彼は中学生の拙(つたな)い疑問や質問を厭(いと)いもせず、真摯に向き合って対話してくれた。そして私たちに答える言葉はとても叮嚀で、今振り返ってみても論理的で真理に適った誠意あふれる内容だった。
そんな彼が帰り際に渡してくれたのが『白鳩』誌だった。そこに書かれた「法語」に魅了された私は、それ以来、牧歌的ともいえる大切な「対話」の時間を、年に数回のペースで持たせていただき、それは私が故郷を離れるまで続けさせていただいた。
真理の探究は、神想観の実修に加え聖典や経本の拝読、そして愛行の三正行が基本だが、生長しようとしている魂たちを導くためには、相手と同じ目線に立っての「対話」が、彼らの神性をひらくカギとなるのだ。大切なことは、共に真理の道を探求する好奇心と、相手の神性を導き出すことへの配慮と、一期一会(いちごいちえ)の出会いのときを豊かに味わう親愛の情である。
それは、学校教育のような一方通行のモノローグの時間ではなく、魂の交歓を通して一緒に真理を探求する興味尽きないダイアローグ(対話)の時間となる、それが誌友会の真の醍醐味だ。
真理は三正行を通して体感されるが、求道の入り口に立つ人に対しては、誌友会などを通して相手との継続的な「対話」を根気よく重ねることが大切で、機が熟すに従って彼の内なる仏性が目覚めるだろう。そして三正行を実修すれば、彼自身が発見した喜びに導かれて真理の道を歩みはじめるのだ。ここまでお導きするのが、私たち菩薩の使命である。
さて『聖使命菩薩讃偈』の中に「己れ未(いま)だ度(わた)らざる前に、一切衆生を度さんと発願修行する」という言葉がある。
発願とは、誰かを「救ってあげたい」と強く願う内なる仏性の働きだ。悩み苦しむ人を「救う」力は、誰の内にも宿っていて湧出するのを待っている。その力の根源は、私たちの内にある慈悲喜捨の四無量心である。「神想観」を通して仏の大慈悲を体感し、「愛行」を通して生活に現すのが「発願修行」だ。
人を救う力は、三正行を実修する中から着実に生長するのである。
さて、講話の折に私がいつも「何か質問は?」と参加者の皆さんに問いかけるのは、私自身が、諸先達との「対話」によって真理への道へと深く導かれ、救われたからである。
生長の家の信徒にとってすべての「対話」は、相手の〝いのち〟との四無量心の遣り取りであり、多様性のある豊かで柔軟な対話こそが「人間・神の子」の実相を開く〝ムスビの機会〟となるのだ。
(二〇二三・一)
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