“神の子の封印”を解く (2023,4)
三月上旬のこと、前教区で行われた地方講師会での会議の折、ある講師から「教化部長が時々話される“行間を読む”とは、どういうことでしょうか?」という質問が寄せられた。
それは、聖典や機関誌などを講義する際に“行間を読み解いていきましょう”と私が語っていたことを受けてのことだが、想い出すままに次のようなエピソードをお話させていただいた。
生長の家本部が原宿にあったころ、私は長時間の電車通勤をしていたが、その時間を利用して何度目かの『生命の實相』全巻の通読をしていた。
ある巻で、そこに書かれた文章が心の琴線に響き、同じ箇所を読み返す度に、新たな発見と、驚きと、ヒラメキが行間から次々とあふれてきて、とうとう一週間ほど同じ箇所を読み返していたことがある。
今から振り返れば、“ああ、あのときわたしは「行間」を読んでいたのだな”と分かるのだが、その折のことを反芻(はんすう)してみると、行間を読むとは、魂の根底から求めていた「コトバ」と出逢うことなのかもしれない、と思えるのである。
かつてお世話になった恩師の一人は、「行間を読む」とは、「文字と文字の間に宇宙を読むことだ」と語っていたが、この言葉にも一理あって、聖典などの宗教書を読み解く場合には、文字面だけ読んで意味を解釈しているだけでは“行間に説かれたコトバ”と出逢うことはできないのだ。
その文脈の背後にある“深み”にふれたとき、初めて既成概念や先入観で十重二十重(とえはたえ)に包まれていた封印が解かれ、行間から、文字間から、そして脳髄の背後から、そこに秘められていたコトバがあふれてくる。
それは、神想観の折に意識の深層で経験する“内的な体験”とも酷似(こくじ)しているのだ。
つまり「行間を読む」とは、祈りの心をもって、文章の背後にあるコトバを探る、ことでもあるのだろう。
仏教でいう「業(karma)」について、『大辞林』には「身体・言語・心による人間の動き・行為」と書かれ、生長の家でも「身・口・意の三業」として、この扱いをとても大切にしている。
たとえば、宗教でいう“救い”とは、この「身・口・意の三業」に深いコトバを授けることで“神の子の封印”が解かれ、その桎梏から解放されることかもしれないのだ。
たとえば「真理の書」や「聖典」と呼ばれる書物には、この「封印」解くカギが秘められていて、その鍵を開くのは、先達が古来から取り組んできた熟読玩味(じゅくどくがんみ)や写経という、手間と時間を惜しんでは得ることのできない、使い古されたように見えるめんどくさい手法こそが、「身・口・意の三業」に深い影響を与える最も有効な手段となるのかもしれない。
そんな、答えになったかどうか分からないようなお答えをしたのであるが、四月からは東京第一教区、第二教区の皆さんと一緒に、総裁先生のお言葉、そして聖典を深く味わいながら、“神の子の封印”を楽しく解いていきましょう。
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