「救い」について (2023,8)
皆さんは、生長の家の人間・神の子の教えに触れて、ご自身のことを「救われた、ありがたい!」と感謝の目で観ているだろうか。
それとも、「私の救いは、まだほど遠い」と、未だ不完全な姿ばかり見ているだろうか。生長の家を信仰するとき、ここの受け止め方はとても大切で、そこに躓きがあれば、「人間・神の子」のコトバの真意と出逢う機を逸するのである。
7月始め、対面とZOOMで真理を研さんする「実相研鑽ネットフォーラム」のため教化部に向かっていたとき、「救い」について気付いたことがある。
救いは、一人一人異なるように見えるが、共通しているのは「楽を与えられる」ことだ。仏教でこれを「抜苦与楽」といい、そこに宗教のお役目がある。
衣食住が満たされる物質的な救いも大切だ。しかし、霊界の消息などを記録した文献などから推察すると、人間の「たましい」はそれだけでは枯渇したままで、未だ救われていないかもしれないのだ。
また、生きている者でも私をはじめ何人かの知人は、もし生長の家の教えに出逢わなければ、今生はおろか幾世にも渡って無明の淵に沈み、手に負えない自身の気性や病気を持て余していただろう。
そんな厄介な「たましい」の面々すらも、み教えと出逢うことで、日々の平安を得たのだ。が、それは「たましい」の枯渇が満たされたからにほかならない。
そんな、「救われた」ことへの“ご恩返し”を、との思いに長年のあいだ駆られていたが、教化部への途上で、ふと「現象はないのだ!」との思いが湧出し、続いて「渾ては神のいのちで、既に救われ済みではないか!」と判ったとき、肩の重荷がすっと抜けていったのだ。
それは、私自身が「三正行」の実践へと導かれたように、「天地一切のものや、生長の家の友人や亡き恩師たちの祈りと愛念が、渾ての人の機縁を熟させ、彼らの〝たましい〟を導くのだ。私は、今できることを精一杯やらせていただくだけでいい」との思いに至ったのである。
家族や後輩を、善き方向に導こうとするとき、そこに“私が”の思いが先行していると、現象の不完全さばかり見えてくるのは、皆さんも経験済みのことだろう。相手(や自分)の悪しく見える現象を責め、それを“良くしよう”と、カゲにすぎない現象に振り回されていれば、彼らの円満な実相を、ますます隠蔽することにもなるのだ。
「救い」は、自身の実相を拝み、相手の実相に無条件に感謝して礼拝することに尽きる。そこから、身心や、物や、お金や、渾てのものが円滑にめぐり始める。それが「人間・神の子」の教えである。私たちの信仰は、天地に満ちる神性・仏性をただただ拝み、感謝する生活にあるのだ。
聖典『生命の實相』の劈頭に「ヨハネ黙示録」が掲げられている。ヨハネは、久遠のキリストとの出逢いの衝撃を次の言葉で綴る。
「その顔は烈しく照る日のごとし。我これを見しとき其の足下に倒れて死にたる者の如くなれり」と。
その久遠のキリストは、あなたを取り巻く一人ひとりであり、あなたを含む天地一切のものが、それであることを、聖典全巻のコトバは告げているのである。
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