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2023年10月 6日 (金)

「愛」の働きについて (2023,10)

 谷口雅春法話集の中に『愛は刑よりも強し』という一冊がある。かつて友人の勧めと、楠本加美野先生が講話で引用されていたことが切っ掛けで、同書を紐解いたのは四十年以上も前のことだ。

 冒頭にある、スター・デーリーがキリストと出逢い宗教的な改心を遂げた個所は、いつまでも深く印象に残り、煉獄(れんごく)のような罪の意識に駆られた折には、その情景を想い出しては“魂の糧”としたものだ。

 八月のある日、再び同書を紐解くと、生前に父が摘んで、私が栞(しおり)に挟んでいた四つ葉のクローバーが、はらりと出てきた。そして次の言葉が目に飛び込んできた。

「彼は、自分が『愛』を行じさせて頂くために神から與(あた)へられた『愛の対象』であると見るべきであり、その『愛』を行ずる事によって誰が救われるのかと言えば、自分が救われるのである」。

 皆さんの中にも、周りのために無我夢中になって愛行に尽力していたら、気がつけば自分が救われていた、というご経験をお持ちの方も多いと思う。

 み教えに照らしてみれば、「愛」の働きは「神」そのものの働きである。愛を行じることで、ニセモノの我(ego)が消えてゆくのだ。

 それが神の働き給う人類光明化運動であり、私たちが神の手足となることであり、その「愛」が働き給えばこそ苦しみは除かれ、多くの病悩が癒やされるのである。

 同書には、終身刑のライファーという“愛の化身”のような人物が登場する。彼がデーリーを神の道へと導くのだが、読者は同氏の言葉を通して、人を活かす“愛”の働きと出逢うだろう。

 たとえば、宗教的な情熱に駆られていた若き日のデーリーに、ライファーは次のように告げる。

「そんなに人を救おうと力むものではないよ。静かに坐して君が救い得る相手が得られます様に祈るんだよ」。

 深い信仰の世界が優しく開示され、気付けば私たちも、デーリーと共にライファーの言葉に耳を傾けている。

「すべて救いのことは神の手にまかせるのだ。そうすると神が、その適当な時と適当な場所とを定め給うのだ。そしてまた、神は君の口に必要に応じた適当な言葉を与え給うのだ。まず『愛』を第一に、その次には『信頼』だよ」。

 人生で豊かな信仰生活を経験した読者の皆さんは、その深浅に応じて、この言葉の持つ慈愛の深さが魂に響くことだろう。


 谷口雅春先生は同書の「はしがき」の中で意外な告白をしている。
「私は読みながら、その要点を書きとった。それは自分が繰り返し読んで反省するためであって、人に教えるためではなかった」と。

 そして先生は、「多くの宗教の教師は、『自分が他を救う』と高慢になっており、『自分が誰かのためにこんなに働いているのに、感謝されない』などと不平に思ったりし勝ちである」と説いている。

 この書が世に出て五十年。

 改めてここに説かれた真理が、私を含め人生の後半を迎えた世代には、当時の雅春先生と同様に魂の深い糧となるだろう。それは若いときには思い及ばなかった、“無償の愛”という円熟の信仰と出逢う時節でもあるのだ。この秋、お勧めの一冊である。

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コメント

久都間先生、ありがとうございます。いのちの川のほとりにてのブログに辿り着く事ができました。川シリーズ3つ目。どのご文章も
一つ一つが私の心に響き読むたびに、新たな気付きがあり感動しています。
先生に、ご相談申し上げます。
娘の事ですが、子供の頃から集団生活になじめず、小・中学校では、いじめにあい、その心のストレスからか、中3の時てんかんを発症しました。それでも不登校にならずに通い続けました。社会人となっても上手く職場に適応できず長続きしませんでした。次第に、心に不調をきたし今は精神障害者手帳を持っています。
娘がその昔の辛い思いがフラッシュバックすると苦しんでいます。日々人間関係に傷付き苦しみ自分はメンタルが弱いと言います。その苦しい思いを浄心行の用紙に書き、聖経をあげ、庭で焼却と3人で行じはじめました。この5年、私はみ教えを学びなおし、練成会に参加し、日々行じています。現象にとらわれず神の子実相を拝む事と思うのですが、娘の苦しむ姿に、日々の訴えに私はどうしたらいいのか悩みます。そして時に現象にひっかかり心で娘を裁いてしまうのです。ない悪現象に怒り腹立てる醜い自分がいるのです。私は母親として失格、冷たい人間だと思うのです。そんな自分を許せないのです。娘の神の子実相真に命の底から拝むのに私の行が足らない、行が間違っているのでしょうか。
先生の他の人への回答私にとって参考になります。
「せっかくの行が信を伴わないと空念仏に終わるのはもったいない事ですがそれはあなたの生きる姿勢がまだ信仰にまで至っていないのかもしれません。」とあります。信を伴った行とはどのようにしたら良いですか。生きる姿勢が伴った信仰とはどのようなものですか。
私は今朝、晩神想観をし、決まった時間に先祖供養をしています。日時計日記、讃嘆日記を書き、聖典を読んでいます。ただ私の行が信を伴っているか自信ありません。ただ毎日必ず行っています。
まとまらない文章で申し訳ありません。私の気持ちが表せたかわかりません。
先生のお時間のある時に、お返事をよろしくお願いいたします。


投稿: 早川文子 | 2023年10月12日 (木) 15時54分

お嬢さまは、さまざまな問題と見えることを通して、あなた様を導いているのかもしれません。

背景のことを、いろいろお尋ねしなければ正確なお答えができませんが、ちょうど明日10/14~15日の2日間、東京第一教区で見真会が開催されます。 → http://snitokyo1.org/

私の講話は、14日の午前中と15日の午後となりますが、もしお越しいただけるようであれば、ご質問に関連したお話をさせていただいた上で、行事終了後に個人指導をいたしますが、いかがでしょうか?

ちなみに14日の午後は浄心行、15日の午後は講話後に祈り合いの神想観が実修されます。

ご都合が合えばお起こしください。

また、別の日程がよろしいようでしたら、生長の家東京第一教区か、同第二教区の教化部の事務局を通してお申し込みいただければ日程を調整しますので遠慮なく。

投稿: 久都間 繁 | 2023年10月13日 (金) 15時53分

ありがとうございます。先生誠に申し訳ございません。今日先生の返信に気付きました。
教化部を通して申し込みいたします。
どうぞよろしくお願いいたします。

投稿: 早川文子 | 2023年10月22日 (日) 14時05分

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